アキバ系文化を語るキーワード: 電車男


現代的な古典的ラブストーリー

 本当は「電車男はフィクションの可能性が高い」説を信じている私ではあるが、まあ秋葉原という街をこよなく愛する自称アキバ系の私としては、フジテレビ系列で放映開始された「電車男」は、やっぱり少し気になる番組であり、一応チェックしていたりする。今回は「電車男=フィクション説」は脇に置いておいた上で評論してみることにする。

 最近「電車男」という物語がこんなにもてはやされる原因は何かというと、既に多くの人も指摘している事だが、「ベタなラブストーリー」、シンプルで古典的な骨組みの恋愛物語だからだろう。この点、同じように古典的な骨組の作品、たとえば記憶喪失ものの「冬のソナタ」や難病ものの「世界の中心で、愛をさけぶ」が流行った理由にも共通するかもしれない。

 「電車男」は、いかにも「アキバ系」だの「インターネット掲示板」だのといった現代的な物語という皮をかぶった、古典的恋物語である。まるでのび太君をそのまま大人にしたような、あるいは映画「マスク」の主人公を彷彿させるような、とにかく救いようのないダメ人間が、ひょんなきっかけでセレブな美人女性に恋をして相思相愛になる、という逆シンデレラストーリーが、この物語の骨組である。

 そして、自分はダメ人間だと思い込んでいた男性は「電車男だって素敵な彼女ができたのだから、自分だってあきらめてはいけない」と思うのかもしれない。この作品を見た女性は、まるで「大改造!!劇的ビフォーアフター」を見るがごとく、キモいモテナイ君がイケメンのモテル君に変身する姿が一番気に入るのだろう(……って、人生そんなに甘くない。今「おたく=キモい、近寄るのも嫌だ」と思い込んでいる人は、「電車男」に影響されて「私もおたく青年をイケメンに改造できる」などと無謀な考えは起こさない方が身の為だ。自分の人格を変えることすら難しいのに、どうして他人の人格がそう簡単に変えられるものか)。

 さて、フジテレビ版「電車男」はどうだったかというと、私としてはぎりぎり及第点を付けることにする。キモいニヤケ顔ばっかり頻繁に出てきたり、特に冒頭のアキバ系君たちが登場するシーンなど、誇張し過ぎのような気もするが、それ以外は全体的に良くできていたし、ネット掲示板の住人もおたくだけでなくいろんな人々を登場させていたのが現実に即していて好感が持てた。それに、主人公の身なりが、いかにもステレオタイプな宅八郎みたいなおたくでなく、しかし一般人にも一目でおたくと分かるちょうど微妙なバランス(たとえるなら「ナーズの復讐」という米国映画に出てくるガリ勉君みたいな感じか)のところを採っているのが何とも憎い。そして何よりも、駅の総武線ホーム、中央通り、交通博物館の新幹線、メイドカフェ「ぴなふぉあ」、などなど――といった、私にとってなじみ深いアキバという街の風景が画面に登場するだけでも、うれしいものである。とは言え、途中からオリジナルストーリーになっていたのは、原作から入った人には少々違和感があるかもしれない。

 十年以上前、“お前は本当におたくをうまく題材にした映画を作りたいのか、それともただ「おたく」という言葉が流行っているからそれに便乗したいだけなのか”と突っ込みたくなる、ただおたくの奇妙な生態ばかりに注意を集中するあまりストーリーが疎かになった偉大なる駄作である「七人のおたく」という映画があったが、その時と比べると、時代は変わったものである。


“女の敵”から“女の味方”に

 今でこそ、おたくは「アキバ系」とか「萌え」などというキーワードと共に、まあ半ば変人扱いではあっても、ある程度肯定的にメディアで紹介されるようになりつつあるが、今から十数年前は、そうではなかった。今の「電車男」のイメージとは逆に、“女の敵”だという認識が一般に広まっていた。

 今から十数年前というのは、幼女連続誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤が逮捕された1989年に始まる数年間の事であり、それはまさに「おたく受難の時代」だった。同人誌即売会「コミックマーケット」の参加者を十万人の宮崎勤と形容する失礼極まりない発言をはじめ、アニメマニアはみんな女の子を性的に虐待する猟奇殺人者予備軍であるかのような偏見が、連日のワイドショーで日本全国に流布された。そして、たとえ健全作品を時々適度に鑑賞する程度の健全そのもののアニメマニアであっても、「こんな趣味は気持ち悪い、汚らわしいから絶対止めなさい、あなたも宮崎勤みたいになって家族に迷惑かけてもいいの?」と家族に問い詰められて、泣く泣く本やビデオなどを捨てさせられたり、勝手に捨てられてしまう。こんな風景が日本の至る所で繰り広げられた。

 1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件そのものは世代と共に忘れ去られても、それ以後、子供を狙った誘拐に我々が警戒するようになったという意味で、その事件のもたらした影響は今でも引き続き残っているが、同じように宮崎勤の事件そのものの記憶も世代と共に風化しつつあっても、その事件のもたらした余波は決して消えることは無いだろう。

 とは言え、アニメマニアの全てが犯罪者予備軍で危険な存在のようにみなされたのは誤り、報道被害であり、それは正されるべきであった。当時ワイドショーでその種の言説を唱えていた人達からは、未だに謝罪の言葉も無い。

 しかし、そんな中で、ここ最近「電車男」がブームになっている。皆さんご存知の通り、酔っぱらいに絡まれていた女性を、おたく青年が勇気を出して助ける場面から始まる物語である。かつておたくの上に貼られてきた“女の敵”というレッテルの上に、全く逆の“女の味方”というレッテルを貼ってしまった事は興味深い。一口におたくと言っても、いろんな人がいるということが段々知られつつあるのは良い事だろう。

 ついでに言うなら、ドラマ版に出てくるおたく達は、アニメの女の子だけに“萌え”というわけではなくて、写真撮影会のアイドルとかメイド喫茶のウェイトレスさんといった実在の成人女性にも“萌え”である事がよく描かれていた。もちろん、電車男自身もエルメスさんに“萌え”で、そのためにネット住民の助けを借りてアタックしている。“おたくはみんな漫画の二次元平面上の女の子だけにしか興味が無い異常者で、実在の成人女性には興味が向かない”というのは全くの嘘なのである。


“本物は許せないが、山田孝之や伊藤淳史だから許せる”?

 「電車男」の人気はネットに留まることなく、昨日まで「おたく?アキバ系?キモい、近寄るな、変態」と悪態を付いていたフツーの女の子たちが、今日はアキバ系とセレブのラブストーリーに夢中である。「最初の方はちょっとキモいけど、面白い」と言いながら見ている。

 「電車男」をネットあるいは書籍で知った人は、ストーリーの面白さに惹かれて興味を持っただろう。しかし映画やテレビから入った人は、私の観察している限り、どうやら、中谷美紀と山田孝之、伊東美咲と伊藤淳史といった有名タレントが出演している事がきっかけで見るようになった人が多いように思う。普段はイケメン俳優で人気のある山田孝之だからこそ、宅八郎風の外見に変身して異色な役を演じても人気が出たのであり、これをもし宅八郎が演じたところで、これほど人気は出なかっただろう。もちろん伊藤淳史についても同じ事が言える。所詮、おたく用語で言う所の「ストーリーよりも(三次元)キャラ萌え第一」、つまりキャラの人気で持っているようなものである。

 先に述べたような、単純にアニメマニアだというだけで危険人物扱いされたり、コミックマーケットの参加者を「十万人の宮崎勤」と呼ばわったテレビレポーターまで出現した平成初期の暗黒時代は過ぎ去りつつある。今は、「変わり者だけど根は素直で優しく、教われば普通の恋愛もできる」、以前よりましなおたく像も描かれるようになる、だいぶましな時代になってきた。とは言え、「電車男」ブームを、即、「おたくが社会に認められた」と思うのは早計であろう。「秋葉原や日本橋や有明にいる本物のおたくの存在は許せないが、山田孝之や伊藤淳史だから許せる」という人々が、今の「電車男」の映画やドラマのブームを引っ張っているのだから。映画やドラマの虚構の世界にいるおたくは好かれても、現実の世界にいるおたくは、未だにあまり好かれていないのは、どうやら事実のようである。


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