アキバ系文化を語るキーワード: 現実と虚構


読書の“想像な世界”に入って楽しむ事を薦めながら、
 一方で漫画やゲームの“バーチャルな世界”を糾弾する、
  これを矛盾と言わず何と言いましょう。
   大人にだって、メルヘンの世界は適度に必要です。

はじめに

 私が物心付いた頃、それは「テレビ漫画」「漫画映画」という言葉から、「テレビアニメ」「劇場アニメ」という言葉に徐々に交替しつつある時期でした。前者は、どちらかというと子供向けアニメという印象の強い言葉、後者は子供に限らず若者一般が楽しむアニメという印象を持つ言葉だったように記憶しています。

 具体的な作品名でいうなら、松本零二の「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」といった宇宙ものSFアニメをはじめ、大人の鑑賞に堪える作品が次々登場し、十代〜二十代のアニメファンがたくさん生まれた時期でもありました。私が、「大人がアニメ作品を鑑賞する」ということに抵抗がないのは、この頃の様子を昔から見てきて、既に慣れきっていた風景だったからだと思います。

 しかし一方で、漫画害悪説、アニメ害悪説も根強く残っている時代でした。私は子供時代、家族の方針で学習漫画以外の漫画を与えられなかったし、テレビアニメは「文部省推薦」のリボンが付いておかしくないような当たり障りない作品をたまに見る程度。クラスメートとは殆ど話が合いませんでした。

 私は大人になり、やっとそれらに自由に触れることができる時がやってきた! そう思いましたが、しかし時既に遅し。

 知りませんでした、アニメマニアというのは、私が子供時代に思い描いていたのと違い、「子供っぽいと思われ」「嫌われ」「恥ずかしいと思われ」「あいつらを差別しても何ら良心の呵責を感じない」存在だったことに。

 思えば、その偏見は1989年に最高潮に達していました。今では石原都知事の三国人発言を「外国人=犯罪者呼ばわりするのは差別だ」と声高に糾弾している、その同じテレビ局が当時は、ある誘拐殺人事件の犯人がアニメマニアだったというだけで、「アニメマニア=根暗な犯罪者予備軍」というレッテルを興味本位に貼ってみたり、また漫画マニアがコミックマーケットに集う姿を「ン万人の宮崎勤(犯人の名前)」とまで中傷していた時代でした。

 確かに、あまりにも節度のない極端なマニアは問題かもしれません。しかし、同じアニメ愛好家にもピンからキリまでいるし、どの作品を面白いと思うかも人それぞれです。時々節度を持って健全な作品を楽しむ、それだけのことであっても変な顔をされる、こんな一部の風潮に、私は疑問を抱き続けてきました。

“アニメのヒロインへの片想い”の義務など最初からない

 世の中、「アニメ」と聞くだけで変態アニメを連想して露骨に嫌な顔をしたり、「アニメおたくなんて現実と虚構を混同してる奴ばかりだ」「本物の女性が苦手だからって架空の女の子に恋をするなんて気味悪い」などと非難する人も中にはいるようですが、それは御門違いというものです。実際にそうするどころか、私の思いにさえ決して上ったことのないそういう鑑賞法を、よく思いつけるものだと、ある意味感心してしまいます。大体、アニメを鑑賞したら登場人物に恋をしなければいけないという決まりなど、いつできたのかと小一時間問いつめてみたいものです。

 逆に私にも教えて欲しいものです。残念ながら私は、アニメのヒロインに対して恋愛感情がどうしても抱けないんですが、異常なのでしょうか。どうすればそういう“一般的なアニメおたく”になることができるのでしょうか。たとえ相手に語りかけようとも、返事の一つも返さず無視を続ける、恋文の一通もよこさない、そんな人は私は最初からあきらめます。「金の切れ目が縁の切れ目」の酒場の姐ちゃんに恋するよりも絶望的。親しくなる(意味を熟考せよ:ただアイドルのファンというだけで個人的に知り合ってないなら、アイドルと親しいとは言えない)ことが決してできず、片想いで終わることが最初からわかり切っている上に、ただの作り話である事を既に知ってしまっているのに、どうして恋愛感情を抱けましょう。(もちろん、これは私自身についてであり、他人がアニメのヒロインとかアイドルに片想いするのを悪いと言っているわけではありません。念のため。)

架空の物語を楽しむのは“現実と虚構を混同する”ことで危険なのか

 また、「現実と虚構を混同すると危険だ」と言っている人に限って、クリスマスシーズンともなると子供にサンタクロースの嘘を教えたり、「サンタクロースは本当はいないのだ」と主張する子供や大人を「夢がない」とか「せっかく子供が信じているのに、子供の夢を壊さないでくれ」などと言うとは、何たる矛盾でしょう。

 “大人がいい年してメルヘンの世界を楽しむ”ことが、そんなに大人にとって危険なら、その危険な事を、何故、か弱い子供には率先して教える。「漫画やアニメや、それにサンタクロースも、子供の楽しむメルヘンの世界だ。子供はその虚構の世界を現実だと思って楽しんでくれるとうれしいし、そんな姿が可愛い」と言いながら。

(私は個人的には、この考えには反対です。私はそう訓練されてきましたが、四、五歳の幼児であっても、教えられれば現実と虚構を識別することができます。最後の項でも取り上げますが、その上でメルヘンの世界のお約束を理解して十分楽しむことは可能です。サンタクロースは実在するなどと、現実と虚構をわざと混同させて子供に教えるのは、大人が子供をつんぼ桟敷に置いて、子供の無知な様子を楽しみたいからではないかと思ってしまうのは私だけでしょうか。)

 大体、架空の作り話をまさに現実っぽく見せて、読者や観客をその世界へ引き込み魅了し共感を呼び涙を誘う。そんな作品こそ、上手な小説・演劇・映画・漫画・アニメなどと呼ばれ、また作品の使命とも言えるのではないでしょうか。あなたは、映画を見ている時に「クライマックスシーンで何ビビってるんだよ、お前は死にやしないだろ」「あ、嘘の話で泣いてやがらぁ、面白い」なんて言われたら、どう感じますか。

 また、まるで想像力を悪いことのように言っておきながら、一方で「読書は想像力を広げるが、テレビや漫画は与えられた絵をそのまま受け取るだけで想像力を狭める」などと矛盾したことを言っているのは、どういうことでしょう。読書とサンタクロースの想像の世界は良くて、アニメの想像の世界は悪いとでも言うのでしょうか。

 そもそも、“今時の若いモンは現実と虚構を識別できない人が多い”なんてものは、マスコミが作り上げた虚像であって、現実とはかけ離れたものです。はっきり言って馬鹿の一つ覚えです。本当に知ってて使ってるのでしょうか。それとも、「バーチャル」とか「現実と虚構を識別できない」という言葉をただ使ってみたいだけなのと違いますか。格好いい言葉で専門家っぽく見えるから、何となく使っているだけと違いますか。あるいは、ある作品の世界を自分が理解できないことによる違和感や言い訳だけなのと違いますか。

アニメを叩くのは“教養のない文化”で“読書の方が高尚”だから

 実際のところ、アニメを叩く人にとっては、アニメヒロインに恋するのが気持ち悪いとか、現実と虚構を識別出来ないと怖いとか、そういうのは副次的な理由に過ぎません。アニメはアニメだから悪いのです。読書の想像の世界は高尚だが、アニメの想像の世界は劣っているのです。教養のある人は活字の本、特に哲学書を読書するものだ。アニメなどおよそ教養のある人の見るものではない。無学な者の文化、“見ると馬鹿になる”卑しい文化なのだ、と言いたいのでしょうが、そう露骨には言えないでしょうから、ああやって遠回しに言っているだけなのです。

(まあ、いつの時代にもそんな人はいます。演歌や浪花節は俗っぽくてクラシックなど西洋音楽は高尚だとか、日本語、特に文語文は古臭くて読みにくい書きにくいと文句を言うくせに、英語はチンプンカンプンでも神様のようにありがたがったり、着物は古臭くて洋服はハイカラだとか、駄菓子は悪で洋菓子屋のケーキやらクッキーやら横文字のお菓子は善とか。)

 もちろん私はその意見には同意しません。アニメといっても秀作も駄作もピンからキリまであります。そして、確かに本を読む事は大切ですが、だから絵の作品が活字作品より劣っているとみなすのは偏見です。文章は文章、絵は絵、両方とも楽しむのが一番良いのです。私は「モナリザの微笑」の絵を見るたびに、本当に絵が想像力を狭めるものだろうかと疑問に思います。また、一昔前に「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメが流行りましたが、この作品の解釈で侃々諤々の議論が起こるほど、視聴者の謎と想像力をかき立てる作品だったのを思い出します(また、この作品は哲学、神学、心理学等に通じていないと深い魅力を味わえない、教養を必要とする作品でもありました)。

 さっき書いたように、読書を勧めるのは大いに結構ですし、私も本の虫として、昨今の読書離れを憂えています。しかし、ネガティブキャンペーンをしてまで勧める態度はどうでしょう。それは押しつけの読書にほかならず、かえって読書離れを加速させるだけです。自発的に本を読むように仕向けること―興味深く読める本を薦めることや、読書の本当の魅力を宣伝すること―こそ、長い目で見て本当に役立つ方法ではありませんか。

“現実と虚構を混同する”とは何ぞや

 現実と虚構を識別出来ないとは、簡単な言葉に言い換えるなら、「作り話の世界を現実に持ち込もうとする」ということです。

 しかし、どうでしょう。おままごとが好きな子供で、泥饅頭がおいしそうだからと言って、本気で食べてしまう子を見かけたことがありますか。スーパーマンが好きな子供で、「スーパーマンごっこ」と言いながら、風呂敷をマントにして二階の窓から飛び降りてしまった子を見たことがありますか。あるアイドルのファンで、「自分はそのアイドルと婚約した、でもみんなが邪魔する」と言いながら、その人をストーカー並にしつこく追いかけ回す人を、あなたの同級生や身の回りに見かけた事がありますか。

 全くいないわけではないにしろ、本当に例外的でしょう。ちなみに、最初の二つは知識不足が原因で、最後の例は妄想癖と呼ばれます。

 “アニメマニアは現実と虚構を識別出来ない”とはつまり、アニメマニアなどみんな妄想癖のひどい気違いなのだ、と言いたいのでしょうが、それは偏見です。アイドルのファンはみんなアイドルのストーカーだと言うのと同じ、短絡思考です。

“虚構を現実に持ち込む”ことが良い場合

 「作り話の世界を現実に持ち込む」ことの悪い面ばかりに気を取られて、積極的な面から目を背けてはなりません。簡単な例を挙げるなら、兎や亀は本当はしゃべらないし、競争もしません。それでは、こんな“馬鹿みたいな”話ばかりのイソップ物語は、現実を生きる上で全く役に立たぬ屑ですか。いいえ、たとえ架空の物語であろうと、そこから良い教訓を引き出す事ができ、これは作り話の世界を現実で有益に活用することに他なりません。そう、たとえ架空の物語であろうと、それが人々に生きる希望や励ましや人生の導きを与えるのであるなら、それを活用しないのは何と愚かなことでしょう。

 また、「バーチャル」な世界は「現実」の敵なのでしょうか。いいえ、うまく使うなら現実の味方になってくれます。教習所にある自動車のシミュレータ、スキー場に着く前にストックを握る真似をしてイメージトレーニングをするスキーヤー、シャドウボクシングで練習するボクサーを見ればわかるとおりで、上手に活用すれば、現実の良いイメージトレーニングになるものです。実際、イメージトレーニングなしでいきなり始める人に比べ、前もってイメージトレーニングをしていた人の方が、上達が早いものです。確かに、問題点を指摘するのはいいのですが、聞く耳を持たず一方的に敵であるかのように決めつける態度は感心しません。

“現実と虚構”の違いは「お約束」と割り切って楽しもう

 さて、私は幼児の頃からサンタクロースの存在は否定しており、人形劇の人形は人間が操作していることも知っており、アニメもフィルムに写った絵が動いているように錯覚させるという原理なのだと理解しており、メルヘンの世界が虚構のものとは知ってたから主人公が窮地に陥っても一粒も涙をこぼさず平然と見ているという子供でした。本当に夢のない子供だったでしょう? ほっといてください。

 一応フォローを付け加えておくと、私はそれでもそれを舞台裏の「お約束」と十分割り切りながら、大抵は十分楽しんでいたものでした。本当はないけど、そんな世界があったらいいな、という楽しみ方であり、それは昔も今も変わることがありません。


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