アキバ系文化を語るキーワード: 妹


 “可愛い妹”ないしは“妹のような女の子”を題材とした漫画やゲームなどが次々と出ているという。世ではこれを“妹ブーム”と呼ぶそうだ。つまり、「自分にこんなに可愛い妹がいたなら」という憧れの気持ちが、漫画やゲームなどといった形で表れており、それが人気を博しているのだ。

 しかしこの様子を“キモい”の三文字で簡単に片付ける人は、あまりにも多い。“妹に恋をするなんて近親相姦だ、犯罪だ、そんな危ないことがブームになっているなんて世も末だ”と。

 あらかじめ断っておくが、私は、いわゆる「妹もの」作品は、どれも良いものばかりと、盲目的に賛成するつもりはない。一部にあるとされる、妹だとか妹のような女の子に劣情を抱くの類の作品は、控えめに言っても悪趣味だ。当然ながら、取捨選択する必要があるだろう。

男女の愛とは違う、別の愛のカタチ

 まず、実際の妹に関して言うなら、男のオンナに対する愛のカタチと、家族に対する愛のカタチというのは違うことを忘れてはならない。男に「あなたは母親を愛しているか、愛していないか」と聞かれたら、大抵の人は「愛している」と答えるだろう。娘を持つ父親に「娘を愛しているか」と聞けば、大抵「愛している」という返事が返ってくるだろう。それでは、そう答えた人に「お前は母親を、娘を、愛していると言うのだから、近親相姦だ、犯罪だ」などと言おうものなら、「失礼な!」と怒られてしまって当然だ。「家族を愛するのと、女を愛するのは意味が違う。そんな事くらい分からないのか」と言い返されるに決まっている。

 だから、「妹に憧れる」とか「妹を愛する」という感情を、即、オトコとオンナの関係に結びつけて考えるのは短絡思考である。単に家族の一員として慈しむという意味に過ぎないことも多い。もちろん、これは比喩的な意味の「妹」つまり妹のように可愛がっている女の子、についても言える。この愛は、必ずしもギリシャ語で云うところのエロースではなく、飽くまでもストイックな関係である場合もある。

「おにいさんへの憧れ」は古典的少女漫画にはありふれたテーマ


南條美和「大すきよ!おにいさん」
(「別冊少女フレンド」1969年4月号掲載)より。

あらすじ: みなし児の紀代は、孤児院へ来た青年を
「おにいちゃん」と慕い、本当の兄だと思い込む。
しかしその青年は兄ではなく、
紀代の本当の兄を轢き殺した犯人だった。
彼は紀代を家に引き取るが、
彼の婚約者は紀代を施設に帰すよう懇願する……

 大体、妹だとか、妹のような女の子を可愛がるといったこと、あるいは逆に女の子が年上の男の人を「お兄さん」と呼んで慕う、の類を扱った作品は、何も今に始まったことではない。昭和30〜40年代の少女漫画黎明期に既に登場しており、上に載せたのはその一つである。

 おわかりだとは思うが、少女漫画黎明期の「おにいちゃん」ものに見られる兄妹愛とは、もちろん、家族愛という意味であるし、年上の青年という意味での「おにいちゃん」への憧れにしても、もちろん、プラトニックな子供らしい憧れである。特にこの時代は、みなし児とか母子家庭の悲哀を描いた作品も多く、そういう作品に登場する「おにいちゃん」とは、まさに主人公の少女の心を癒し、飢えた家族愛を満たしてくれるような、暖かな存在として描かれることが多かったように思う。

 時代をもう少し後に進めて、比較的知名度の高い作品も挙げてみよう。まず、血のつながってない高校生兄妹の愛情を描いた作品で、H2Oによるエンディングテーマ「想い出がいっぱい」で有名になったアニメ、とヒントを出せば、「みゆき」(1983年放映)という作品名がすぐ思い浮かぶ人は多いはずだ。少女漫画となると十指に余るほどたくさんの作品があるが、池田理代子の「おにいさまへ…」(1974年「週刊マーガレット」連載)が特に有名だろうか。

 このような作品が昔からたくさんあることを知っていた私にとっては、妹もの・おにいちゃんものなど、珍しくも何ともない。古典的なテーマであり、何も今に始まったことではないのである。

 「妹を愛するような作品など危険思想だ」と、作品を良く見もせずに一方的に決め付ける人々は、伊藤左千夫の「野菊の墓」(いとこ同士で相思相愛になった故の悲劇を描いた作品)をどう読むのだろう。せめてこの作品くらいは真面目に鑑賞して欲しいと思うのは余計な註文だろうか。


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