融和促進

喜田貞吉氏述

二、解放かいほう要求ようきゅう結果けっか

んなわけで、所謂いわゆる改善かいぜん」の結果けっかは、被差別者ひさべつしゃもっとおお希望きぼうする差別さべつ撤廃てっぱいうえに、おもうたほど効績こうせきがあらわれませんでした。漸次しだいしん人間にんげん目醒めざめた人々ひとびとは、所謂いわゆる改善かいぜん」のこえきあきました。こと熱心ねっしん改善かいぜんいて人々ひとびとでも、多数たすうは、もともと差別さべつされるものたいする同情どうじょうのほとばしりからおこったものでありますから、被同情者ひどうじょうしゃっては、自然しぜん同情どうじょうりせられるようなかんじをしょうじてました。無論むろんあいだには同情どうじょう仮面めんかぶって、これをパンにえようとするものもかったとはいわれません。れがために「同情どうじょう」というまたようやかれてました。同情どうじょう勿論もちろんうるわしいこころのあらわれであります。同情どうじょうなくしてはしん解放かいほうは、到底とうてい出来得できうべきものではありません。しかしながら同情どうじょうされるものがわからこれをますれば、「可愛かあいそうだから」というような、うえからての同情どうじょうはそううれしいものではないに相違そういありません。これためついには「同情的どうじょうてき差別撤廃さべつてっぱいはいす」などのさけびまでが、一部いちぶ人々ひとびとあいだおこるようになったのであります。

近頃ちかごろ所謂いわゆる部落ぶらく目覚めざめた人々ひとびとあいだには、所謂いわゆる改善かいぜん」の効果こうか差別撤廃さべつてっぱいうえにあらわれることのすくないのにき、ことに「同情どうじょう」のりに嫌気いやきおこし、世間せけんのあまりにわからなさすぎるのにしびれらして、所謂いわゆる水平運動すいへいうんどう」をおこしました。依頼たよことなく自分自身じぶんじしんちからのみで、人間にんげんとして、また国民こくみんとして、当然とうぜんあたえられた権利けんりうばわれたのをかえし、完全かんぜん解放かいほうされようとするのであります。これはまことに当然とうぜんすぎるほど当然とうぜん要求ようきゅうで、じつわば、一般世間いっぱんせけん人々ひとびとはその要求ようきゅうってのちはじめてこれあたえるのではなくして、要求ようきゅうまえに、みずかすすんですべきはずのものでありました。もともと差別さべつしてるのは一般世間いっぱんせけん人々ひとびとです。したがって差別さべつ撤廃てっぱいするのも、また一般世間いっぱんせけん人々ひとびとそれ自身じしんでなければならぬはずです。しかるに世人せじんあまりに冷淡れいたんでした。差別さべつされるもの如何いかくるしんでようとも、世人せじん多数たすう所謂いわゆる対岸たいがん火事かじるように、まった無頓着むとんちゃくに、自分等じぶんらかぎりの太平たいへいゆめむさぼってたのであります。そこへ突然とつぜん急激きゅうげき要求ようきゅうがやってました。所謂いわゆる集団しゅうだん威力いりょく」をもって、「徹底的糾弾てっていてききゅうだん」をくわえて、世間せけんひと目覚めざめしめようとしたのであります。つい不用意ふよういった差別的さべつてき言語ことばにも、所謂いわゆる徹底的糾弾てっていてききゅうだんくわえられました。内心ないしんには本当ほんとう悔悟かいごしないものまでが、「後悔こうかい至極しごく」という謝罪状しゃざいじょうかせられました。罰金ばっきんつもりで、新聞紙上しんぶんしじょう謝罪広告しゃざいこうこくさせられました。これため世間せけんはなはだしく目覚めざめました。おな人間にんげん差別さべつするのは不都合ふつごうだということを、痛切つうせつみとめさせられました。これたしかに所謂いわゆる第一期だいいっき水平運動すいへいうんどう効果こうかでありますが、反面はんめんおいて、世人せじんはあまりにきゅうにゆりおこされたために、彼等かれらたちま戸惑とまどいしてしまいました。水平社すいへいしゃ人々ひとびともって、如何いかにもおそろしい、いやなものであるかのごとかんがえました。その当然とうぜん結果けっかとして、表面うわべには差別的さべつてきのことがすくなくなりましたが、しかしそれはおおくの場合ばあいおいて、しんこれ理解りかいした結果けっかからではありません。たん自分大事じぶんだいじということから、るべくさわらないようにしようとするためでありました。所謂いわゆるさわらぬかみたたりなし」というのです。可愛かあいい、可愛かあいいの人情にんじょうからは、それもむを次第しだいでありました。小学校しょうがっこうかよ子供こどももっ親達おやたちは、んにもらぬ無邪気むじゃき子供こどもいましめて、けっして差別的さべつてき言葉ことばくちにするなとおしえます。はじめてエタ・非人ひにん特殊部落とくしゅぶらくなどの講釈こうしゃくをしてかせます。るべく部落ぶらく子供こどもちかづかぬようにと注意ちゅういします。結果けっかは、ときとしてはかえって、これまで折角せっかくちかづいて距離へだたりとおくし、あいだみぞふかくしたようきらいのある場合ばあいいではありません。実際じっさい世間多数せけんたすう人々ひとびとは、あきらかに水平運動すいへいうんどう誤解ごかいしました。そしてどんな場合ばあいにも、所謂いわゆる部落ぶらくひとかれるようところで、差別的さべつてき言葉ことばくちにしてはならぬといましめあいました。しかかげでは相変あいかわらずこれくちにし、これこころおもってものすくなくないのであります。ちかごろ大阪おおさか小学校しょうがっこうで、生徒せいと体罰事件たいばつじけんいて問題もんだいおこったときに、たまたまその子供こども所謂いわゆる部落ぶらくのものであったがために、「お前達まえたち特殊部落とくしゅぶらくものは、特殊部落民とくしゅぶらくみんらしく子供こども部落ぶらく学校がっこうかよわすがよい、なまじ普通ふつう学校がっこうかよわせるから面倒めんどう問題もんだいおこるのだ。」との意味いみことを、さも毒々どくどくしいことばつらねて、匿名とくめいその子供こどもおやおくったものがありました。これため問題もんだいは、さら差別事件さべつじけんになりまして、ひどく面倒めんどうになったときました。この手紙てがみ勿論もちろんたれかの悪戯いたずらぎますまい。しか悪戯者いたずらものはたしてたれであるにしましても、ともかく世間せけんにはいまもって、本当ほんとうにそんなことおもって無理解者わからずやすくないのであります。そしてそれが群集心理ぐんしゅうしんり勃発ぼっぱつしますと、群馬県ぐんまけん世良田事件せらだじけんようことにもなるのであります。こんな有様ありさまて、どうして本当ほんとう解放かいほう出来できましょう。本当ほんとう融和ゆうわもとられましょう。

しからばしん解放かいほうはどうしたら出来できましょう。しん融和ゆうわはどうしたら出来できましょう。解放かいほう融和ゆうわ道筋みちすじで、差別さべつ撤廃てっぱいして所謂いわゆる部落民ぶらくみん完全かんぜん解放かいほうし、同時どうじ部落ぶらく其物そのもの改善かいぜんして、一般世間いっぱんせけんしておくれをらぬだけのものにしなければなりません。ふたつのもの相伴あいとものうて、はじめて融和ゆうわつのでありますが、これ促進そくしんするにいては、わたくしもって、「おたがいによくる」ということが、もっと大切たいせつだとしんじてります。「おたがいによくる」ことおいてのみ、しん理解りかいはじめてらるべきものであります。しかしてしん理解りかいにのみよって、解放かいほうおこなわるれば、改善かいぜん出来できまして、しかしてしん融和ゆうわはじめてあらわれるはずのものであります。


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