編集後記―過去ログ
1998-07-07
こんなこともやってます
セントラル株式会社のホームページ
実は私、仕事でホームページ製作もやっていたりします。
といってもつい最近始めたばかりで、これが第1号。
友人のひとりが働いてるボート屋でホームページを作るというので早速作ったもの。
「はなごよみ」製作で培った技術が活きる機会!
自分のホームページは長いこと作り続けてきましたが、人のホームページを作るのは初めてのことなので、ちょっと不安はあったものの、シンプルなデザインが結構気に入っていただけて、ひとまず安心。
なお、扉ページの東京湾アクアラインの写真がきれいなのは私のせいではありません。
向こうで用意していただいたものですが、なかなかうまく撮れてますね。
普段私は私的な文章はこんな感じに正字正かな縱書きで書いてゐます。
ホウムペイジで縱書きの文章を書くのは結構難しいのでGIF畫像にして載せてゐます。
筆記用具は萬年筆を愛用してゐますが、ボールペンでは出しにくい、流れるやうな運筆が樂に出來るのがその理由です。
1998-06-05
アニメ製作現場からセルが消え始めてゐる
アニメフアンならすでにお氣附きかもしれないが、エンディングクレジットに「デジタル彩色」とあるアニメが去年から今年にかけて急に増え始めた。
「夢のクレヨン王国」然り、「みいファぷー」然り、「ドクタースランプ」然り、「金田一少年の事件簿(新シリーズ)」然り。
かの有名なポケモンでさへ、エンディングにデジタルアニメを使用してゐる。
さて、デジタル彩色とは何か。
從來人の手をかけて一枚一枚手作業で色を塗つてゐたセルが、今では電算機上で簡單に彩色できるやうになつたのである。
この技術自体は十數年前からあつたけれど、こんなに廣く使はれるやうになつたのは、ごく最近のことである。
デジタル彩色の良いところであり欠点ともなつてゐるのが、鮮やかな色を出せることである。
從來のセルアニメでは絵の具やセル自体の濁りがあるため、鮮やかな色を出すのに限界があつた。
しかしデジタル彩色ではそのやうな制限は一切なく、光の三原色で表現できる色はすべて付けられるのである。
セルを重ね合はせた時の色の濁りも全くない。
しかしながら、鮮やかすぎるために、どぎつい色になつてゐることもたびたびある。
とは言へ、技術は格段に進歩したもので、從來のセル彩色に迫る、或はそれ以上の質の高い作品もいくらかある。
例へば、私は最初、「夢のクレヨン王国」のやうなメルヘン作品にデジタルアニメは似合はないのではと思つてゐたが、其の期待を裏切る位の見事な出來で驚いた。
色使ひも柔らかく、しかし鮮やかな色も所々、效果的に使つてゐる。
昔ながらのアニメフアンには、從來のセル彩色のあの獨特の味がなくなつたのを殘念に思つてゐる人も多いかもしれないが、デジタル彩色の登場により、アニメーションの新しい表現技法が生まれ始めてゐるのも事實である。
私としては、是非ともデジタルアニメの今後に期待してゐる。
おわびと訂正
1998-04-11付の、「春の花(2)―桜」にて、櫻を日本陸軍のシンボルマークとしてゐましたが、正しくは日本海軍でした(日本陸軍は星でした)。間違つた情報を流したことをおわびすると共に、此の場をお借りして訂正いたします。
1998-05-26
いはゆる自虐史觀 對 自由主義史觀の論爭に思ふ
今、日本は、自らの大東亜戰爭時代の歴史を見直す時期に來てゐるのかもしれぬ。
と言つても、自由主義史觀の話ではない。
私は藤岡信勝氏の「自由主義史觀」(同氏の「教科書が教えない歴史」や、贊同者小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」などで有名)の贊同者ではないことを、あらかじめ斷つておく。
歴史に於いて事實は一つなり。
しかしその歴史といふものが、左翼のイデオロギー、右翼のイデオロギー、何々派のイデオロギー、××派のイデオロギーなるものに、かき混ぜられてしまつて、眞實が見えにくゝなつてゐる。
いはゆる自虐史觀派は「慰安婦は日本軍に強制連行された」と云ひ、自由主義史觀派は「軍による慰安婦の強制連行は無かつた」と云ふが、未だに論爭の決着は付いてゐない。
私はどちらかの肩を持つといふ譯ではない。
結局泥沼の論爭に終はつてしまふ事も多いし、あへてどちらにも付かない。
しかし私は思ふ。
大東亜戰爭時代の植民地主義や軍國主義、GHQ占領下での言論統制や、東京裁判、舊日本植民地の共産國化とそれによる戰爭、北朝鮮の朝鮮人妻問題とその背後の問題……
これらに關してどれほどのことが知られてゐるだらうか。
これら歴史の背後關係が正しく知られてゐないのが樣々な誤解の原因ではないだらうか。
自分自身よく理解せず、周邊國も日本に關しさうである。
これは相互理解の大きな障碍になつてゐる。
いや、誤解ばかりが原因ではない。
例へばある國では、日本に對する恨みからか、忌々しく偏見を助長する反日教育が今でも行はれてゐて、このねじ曲げられた歴史教育で日本に對する反感をいたづらに煽つてゐるといふ。
日本でもインターネットで自由主義史觀派の掲示板を荒らしたり個人情報を探つて攻撃を煽つたりする不届き者がゐるかと思へば、過激な右翼はいはゆる自虐史觀派の出版社に街宣車で乘りつける。
何と大きな障碍だらう。
また、「戰前の日本に良いところは一つもなかつた」といふやうな偏窟な考へ方も、真実を探求する妨げである。
日本は戰前において、戰後でさへ多くの過ちを犯してきたのは事實であるが、果たして本當に惡いことしかなかつたのだらうか。
私はさうは思はない。
最近、戰前の歴史や文化を研究するやうになつて、特にさう思ふやうになつてきた。
偏つたイデオロギーに汚染されない公正な歴史がわかるなら、自分の國の歴史を正しく知り、周邊國との關係の背景を知る助けになるのだが、實は、さう一筋縄ではいかない問題なのが殘念である。
* 日本がアジア地区を中心に行なつた戰爭を私は「太平洋戰爭」ではなく「大東亞戰爭」と呼ぶことにしてゐる。眞珠灣だけでなく日本がアジアで行なつてきたことも忘れてはならぬ。意圖的にしろさうでないにしろ、それらの人に迷惑をかけてしまつた部分が多かれ少なかれあるのだから。
1998-05-15
春の花(3)―薔薇(ばら)
薔薇は赤(花言葉は愛情、熱愛)、白(花言葉は「私はあなたにふさわしい」、純潔)、黄(花言葉は嫉妬)の三色だけかと思っていましたが、最近、橙色の薔薇なるものを見ました。
バイオテクノロジーを使ったものなのでせうか。
珍しいものだったので、写真を撮っておかなかったのが悔やまれます。
この調子だと青薔薇や黒薔薇(花言葉は不吉、呪い?)が出るのも時間の問題でせうが、ちとコワイものでもあります。
薔薇は他のどんな名前で呼ばれても香(かぐわ)しい
(A rose by any other name would smell as sweet.)
有名な「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet)」に出てくるセリフですね。
でもこれはあくまでも恋の文句であって、現実的ではないのでせうか。
「赤毛のアン(Anne of Green Gables)」でアンはそれを否定しています。
'I read in a book once that a rose by any other name would smell as sweet, but I've never been able to believe it. I don't believe a rose would be as nice if it was called a thistle or a skunk-cabbage...'
「『薔薇は他のどんな名前で呼ばれても香しい』ってあたし前に本で読んだことあるけど、全然信じられないわ。薔薇があざみとかスカンク・キャベツなんて名前だったら、素敵になんて思えないでしょう。」(私の訳)
バラが咲いた
百万本のバラ
次に薔薇の出てくる歌。前者はマイク真木(最近のドラマ「ビーチボーイズ」ではおじいちゃん役でしたね。時は過ぎたものです)の歌。
確かNHK「みんなのうた」で有名になった歌だと思います(違ってたらゴメンナサイ)。
この歌がフォークソングとしてだけでなく童謡としても分類され、今でも広く親しまれているのは、そのためでしょう。
後者は加藤登紀子の歌、女優に恋をした貧しい画家の歌です。
ベルサイユのばら
少女漫画誌の女王様「マーガレット」誌に連載された池田理代子の漫画。
フランス革命を扱った作品らしいです(私は最初のごく一部しか読んだことがないので、詳しくは知りません(^^;)。
後にテレビアニメや宝塚歌劇にもなり大ヒットしました。
ねえ薔薇って漢字で書ける?
数年前のキッコーマンのCMより。
このCMで「薔薇」の漢字を覚えた人も結構いたりして。
今回はここらへんでネタ切れ。
春の花シリーズは今回で終わりとして、次回お楽しみに。
1998-04-11
春の花(2)―桜
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ――紀友則
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに――小野小町
ここ関東地方では桜の花が満開です。
やはり日本の春に桜は欠かせないものです。
「花より団子」と言いながら桜の木の下でビール飲んでカラオケ歌ってドンチャン騒ぎもいいけど、私は「団子より花」。
桜の花びらのひらひら舞う静かな公園を、センチメンタルな気分でゆっくり散歩。
……っちゅー、乙女チックモードに入ってる場合じゃあありません(笑)
前回予告の通り、桜は日本の花の中でも一番「雄々しい」花。
しかし、雄々しい中にも哀愁漂うものであります。
花は桜木、人は武士
この有名な言葉のように、雄々しい武士が、華麗な花を咲かせ風と共に散ってしまう桜の花に例えられているのは、なぜでしょうか。
これは、いざとなったら命を散らしても主君のために仕えるという、サムライの心得を表わした文句です。
明治時代になるとサムライも平民になり、代わりに外国に倣って軍隊が創設されました。
そしてそこでも、兵隊は桜の花にたとえられ続けてきました。
例えばこんな歌の通りに。
万朶(ばんだ)の桜か襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
散兵線の花と散れ
(「歩兵の本領」加藤明勝作詞、永井建子作曲)
なお、外国のほとんどの軍隊が星をシンボルマークにしている一方、日本海軍は珍しくも「桜」を採用していましたが、それにはこんな意味があったのです。
さて、大東亜戦争も終わりに近づくと、敵艦隊に体当たり攻撃を仕掛ける「特攻隊」が使われるようになりました。
零戦のような戦闘機が特攻に使用されたり、あるいは「桜花」(これも桜の名前が付いていますね)のような特攻専用機も作られ、洋上の「桜と散って」いったのでした。
もともと戦闘機は敵弾をうまくかわしながら敵を攻撃するものであり、それをしないまま、専ら飛行機も命も犠牲にして敵艦に突っ込むことは、本来の目的ではありませんでした。
戦況がかなり厳しくなってきたころの苦肉の策とは言っても、飛行機乗りにとっては、我が子のように愛していた飛行機が敵艦にぶつけるためだけに使われていくこと、戦友が次々と特攻で命を落としていくのを見るのは、頭ではわかっていても、きっとつらいことだったでしょう。
同期の桜
学校などの同期生のことをたまに「同期の桜」と呼ぶことがあります。
しかし、なぜ、同期の「桜」なのでしょうか。
貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
みごと散りましょ国のため
(「同期の桜」作詞・作曲者不明)
正解は、この「同期の桜」という軍歌です(この歌の歌詞は、西条八十が「少女倶楽部」に掲載した「二輪の桜」という詩が元ネタのようです)。
この歌も国のため命を散らすことを、花の散る様に例えています。
しかし、今ではこの歌に歌われているような予科練生でなくて、普通の学校や会社の同期でも「同期の桜」と呼ぶようになりました。
サクラ
客の中に紛れ込み、客をあおって商品を買わせる人のことを「サクラ」と言います。
しかし、なぜ「サクラ」なんでしょうか。
語源は諸説あるそうですが、いまだに不明だそうです。
さくら銀行
太陽神戸銀行と三井銀行が合併した当初は「太陽神戸三井銀行」という名前でした。
しかし、名前が長すぎて大変だったせいか、程なくして「さくら銀行」という名前に変わりました。
三井の名前が消えるのを反対する声もあったそうですが、日本らしく覚えやすく、なかなかいい名前だと思ったものでした。
さくらももこ
「りぼん」誌に掲載された少女漫画でありながら、今では一般の男性を含めた大人にまでごく普通に親しまれるようになった数少ない作品のひとつ、「ちびまる子ちゃん」。
「あったあった、こんなこと!」と思わせてしまう、日常に密着した漫画であったこと、絵のタッチもストーリーも、少女漫画になじみのない人にもとっつきやすかったこと、などが、幅広い読者層を獲得した要因だろうと私は思います。
さて作者はペンネームに花の名前を付けることにしたそうで、「さくらももこ」と「さくらすみれ」の2候補のどちらを名乗ろうか、だいぶ悩んだそうですが、結局「さくらももこ」というペンネームにしたそうです。
自伝的漫画という性格からか、「ちびまる子ちゃん」の主人公まる子の本名も「さくらももこ」となっています。
そして母の名前は「さくらすみれ」だそうです。
さくらの花の咲くころに
前回は「すみれの花咲く頃」について書きましたが、「さくらの花の咲くころに」という歌もあります。
渡辺美里の歌で、ちょうど私が中学生の頃の卒業式シーズンに校内放送や送別会などで使われたものでした。
カードキャプターさくら
サクラ大戦
最近流行っていますが、残念ながら私は、前者が少女漫画誌「なかよし」掲載で最近アニメ化された漫画、後者がセガサターンのゲームソフト、という程度しか知りません。ごめん。
桜花賞
競馬ファンにはおなじみですが、残念ながら私は詳しくは知りません。ごめん。
車さくら
寅さんのたった一人の妹。
私は「男はつらいよ」はずっと昔に2,3作しか見ていないので詳しいところはわからないのですが、お兄ちゃん思いのいい妹だったような。
寅さんの、さくらを思う気持ちは主題歌にも歌われていますね。
妹のために立派な兄貴になってやりたい、でもそううまくはいかない。
ついでに自分の恋もいつも実らず終わってしまう。
そしてまた旅に出てしまうのです。(^^)
次回予告
次回は「春の花(3)―薔薇(ばら)」の予定。
次回も、サービス、サービス。
1998-04-05
春の花(1)――すみれ
♪すみれの花咲く頃、初めて君を知りぬ
思わずこんな歌をハミングしたくなる春がやってきました。
……と言っても、まだ寒かったり、寒かったと思ったら暑くなったりとだいぶ不安定な天候です。
しかし桜は咲き始め、黄色の菜の花が風に揺れ、野にはレンゲやナズナやタンポポが、いぬふぐりが、そしてすみれが咲き乱れる春。
「はなごよみ」という名前のホームページの割には、花の絵や写真が少なすぎたので、今がチャンスとばかりに、いろいろな花をフィルムに収めようかと考えているところです。
すみれの花咲く頃
さて、さっきの「すみれの花咲く頃」という歌。
宝塚少女歌劇の昭和5年上演作品「パリゼット」の主題歌として有名な歌です。
当時の月組生徒による歌をラジオで聴いたことがありますが、こんなセリフが前に入っていました。
パリの花売りがすみれにまつわる恋の思い出を語る、というような話らしいです。
すみれの花は、あたしの店のがパリ中で一番いいんです。
ね、いいにおいでしょ。
それが初恋の香りです。
恋人をよろこばすには、すみれの花に限ります。
そして、「すみれの花」を歌うんです。
さあ、歌ってごらんなさい。
さてこの歌は、フランスのシャンソンに白井鐵造が日本語の歌詞を付けたもので、もともとは「白いリラがまた咲く時」(Quand Refleuriront les Lilas Blancs (=When the White Lilacs Bloom Again))という意味の題だそうです。そしてそのシャンソンも元の歌があり、ドイツ語でWenn der Weisse Flieder Wieder Bluht (= When the White Elder Blooms Again、白い庭常[ニワトコ]がまた咲く時)という題名だそうです(ついでながら、Fliederという語には庭常だけでなくリラという意味もあるらしく、リラのことをspanisher Flieder[スペイン庭常]と言います)。
スミレさん
みつはしちかこの漫画「小さな恋のものがたり」に「スミレさん」というあだ名の女の子が出てきます。
サリーに一目ぼれしてしまうけれど、恥ずかしくてなかなか告白できない。
ある日彼女はサリーに告白しようとしますが恥ずかしくて逃げ出してしまいます。
そこに落としてしまったのが、スミレの花束で、以来「スミレさん」というあだ名で呼ばれるようになりました。
チッチはそんなシャイなスミレさんを見て、サリーに憧れていた昔を思い出し同情するのですが、一方、恋敵でもあり、サリーとスミレさんが急接近するとやっぱりチッチはブリブリ。
「小恋」ファンは9巻・10巻の展開にはハラハラドキドキさせられたのではないでしょうか。
すみれ September Love
今では女装の麗人IZAM率いるバンド、SHAZNAのカバーで有名ですが、これは昔「一風堂」が歌っていた歌のようです。
古物屋でシングルレコードを見付けて初めて知りました。
すみれは春の花なのに、"September"と来ているところが、言葉遊びっぽく感じるタイトルです。
次回予告
可憐で乙女チックな雰囲気のすみれに引き続き、次回は「同期の桜」「日本海軍のシンボルマーク」をはじめとした雄々しい雰囲気も持つ「春の花(2)――桜」の予定です。
次回も、サービス、サービス。
1998-03-26
おばかさん
こんな箱を設置すれば、ナイフが回收できるなどと思つてゐるおばかさんが、三重縣と宮城縣に本當にゐたのですね。
こんな箱には、あきれて剃刀の刃だって入れる氣がしませんな。
せいぜいこんなおばかな箱は、以前有つた春畫の回收箱と同じ運命をたどるでせう。
少年にナイフを持たせよ!
ナイフならやっぱり、肥後の守に限る。
だいたい、昔の子供たちはナイフを工作用に、鉛筆削り用に、いつも愛用してゐたのを忘れたのか。
「近頃の子供は、いつもファミコンやテレビにうつつをぬかしている。外で遊べないのか」、なんてぼやくのだったら、その「外」を子供たちに返せ!
そう、少年少女に蝶々や蝉やカブト蟲のとれる森を返せ!(近くにはポケモンのとれる森しか殘ってないとは殘念な話である)
そしてナイフを少年から取り上げる前に、ナイフを正しく使はせよ。
いぢめのすすめ
ただし昔のガキ大將のルールに限る。
今のいぢめっ子は、昔と違ひ「限度」を知らないから困る。
だれかをからかったりいぢめたりしても、相手が泣いたらやめてやるのが、モノホンのガキ大將だ。
それ位のやさしさすら忘れた血も涙もないガキ大將は、“お天道樣が許しても”私は許さぬ。
そんなのはいぢめの惡用……いや、いぢめとは云はず「犯罪」レベルになってきてゐる。
あの少年法がある限り、いぢめの加害者や、酒鬼薔薇某氏(本名は■ ■■■氏といふらしい。プロバイダが珊瑚礁寫眞事件で惡名高い某新聞社に壓力をかけられぬやう、伏字にしておくが)みたいなヤツには、犯罪を犯しやすい世の中である。
被害者の人權を無視してまでも加害者の人權をああまでして守ろうとするなど、私には考へられぬ。
1998-02-26
Political Correctnessといふ僞善
現代社會はPolitical Correctness(直譯[チョクヤク]すれば、政治的正しさ)などといふものの爲、「めくら」「つんぼ」「ゐざり」など樣々な言葉が死語となつてしまつた。
しかし、これは形だけで終はつているやうな氣がするのは、私だけではあるまい。
右にある、修身の教科書を見よ。
これは明治三十五年(西暦1902年)のものである。
當時(トージ)「めくら」などといふ言葉が廣(ヒロ)く使はれており、教科書ですら用ゐてゐたからといつて、國民は盲人を輕蔑するやう教へられてきたかといふと、實際(ジッサイ)はその逆である。
大東亞戰爭(*)後、米帝國占領軍により「修身」が廢止された爲、現在は「道徳」に變(カ)はつた。
しかし、その「道徳」の授業で何を教わつてきたか、皆さんは覺えてゐるだろうか。
もちろん、私は昔のまゝの「修身」を復活させるのには反對(ハンタイ)だし、天皇崇拜を推しすゝめる内容など幾つか問題點(モンダイテン)は有るだろう。
だが、戰後の「道徳」は戰前の「修身」ほど子供たちに影響を與(アタ)へて來たとはどう考へても云へない。
むしろ、曲がりなりにも、「修身」の方が、まだマシだったやうに思へるのは、私だけではあるまい。
皮肉なことに、多くの學校で「道徳」の授業時間は、時間割だけに存在し、ほかの豫定(ヨテー)で容易につぶされてゐるのが現状である。
話を元に戻すが、最近はPolitical Correctnessといふ言葉により、禁止用語がいたづらに増やされてゐる。
しかし、特定用語を禁止するだけで、弱者への配慮を教へることになると勘違ひしてはならぬ。
「めくらを助けた、おたけさん」の建設的な寓話もあれば、「あんた身障?」と輕蔑的に代替用語を用ゐる現代人もゐるのであり、禁止用語などといふものに騙されてはならぬ。
眞の問題は使用法なり。
「Politically correct speechというものが、言論の自由を奪ってきた。(Politically correct speech has destroyed freedom of speech.)」―新聞記事より。
(*)「太平洋戰爭」とはハワイ決戰に始まつた、太平洋を挾んだ日米間の戰鬪なり。
中國や東南アジア地域で行はれた戰鬪を忘れさすやうな表現である爲、私はむしろ「大東亞戰爭」といふ言葉を用ゐることにしてゐる。
■ この文章は、正統表記用辭書(ジショ)を用ゐて書かれてゐます。
しかし現在特訓中である爲、誤字・脱字等教へていただければ有り難いです。
1998-02-14
バレンタインデー
一個もチョコをもらえなかった男性諸君のために一首。
おそまつ。
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