編集後記―過去ログ
1999-08-02
「2次元」「アニメ絵」も過去のものとなりつつある
〜「セル」はもちろんのこと〜
水彩画が動くというあの「となりの山田くん」。
やっと時間が空いたので今日映画館に見に行って来た。
「でも四コマが原作だからね……」と最初は食わず嫌いを決めかかってたけど、テレビでハイライトシーンを見て面白そうだったので見に行くことに決めたのである。
とにかく、技術的にはなかなか目を見張るものがある。
いわゆるボブスレー編であのラフスケッチみたいな漫画が3次元的にダイナミックに動くのには感動である。
あまりにも手抜き的なラフスケッチから、やや劇画的タッチの部分も効果的に使われていたが、でもラフスケッチとて本当の意味で手抜きではない。
ラフスケッチがパラパラ漫画的ではなく細かな部分までリアルに動いてるという具合であるが、こればっかりは言葉ばかりでは説明できかねるので、実際に映画館で確認すべし。
声優も結構登場人物のツボついたキャスティング。
おかんとばあちゃんの掛け合いがなかなかいい。
その二人は関西弁なのに、なんで父親も子供も標準語に全くの標準アクセントなのだろうという疑問は残るけれども。
だいたい、関西が舞台なら家族全員、関西アクセントが強力に伝染してしまうのが普通のはずなのだが……。
あと、ののちゃんって私が思ってたより幼い声だったのには意外だった(原作読んでた時は小学5,6年くらいかと思ってたら、本当は小学3年とは)。パンフには本物の子供が声を当ててるとあって納得。子供のくせにうまい。それに、大人の声優が子供の声を作るより自然でいい。
音楽も矢野顕子のホワホワした雰囲気にピアノ、ベストマッチである。
ただ、ストーリーについては、私はなかなかいいとは思ったけれど、でも賛否両論あるところかもしれない。
四コマ漫画をベースにしてるだけに、どうしても細切れのショートストーリーの連続といった感じで、全体的な流れというのがないような、何か割り切れない感もある。
ずっと前の高畑作品の「おもひでぽろぽろ」もそうであったけれど。
でも一つ一つのストーリーは面白いし笑える(実際、劇場内でも時々笑い声が)。
原作からしてそうだけど四コマ目のひねりがなかなかきいてる。
アニメといえば戦闘ロボットか魔法少女というのが今の流行り、「山田くん」みたいに平凡な家庭を扱った、ともすると「地味」扱いされる作品なんて、高畑監督・スタジオジブリのネームあってこそ冒険できたことかもしれない。
ただ、同じ平凡な家庭といっても「サザエさん」ともまた違う。
最近のアニメ版サザエさんは、元々の笑いがリズミカルに展開される四コマ版とは全く別物、まったく平凡で無難なニコニコ家族というだけのマンネリの感もあるけれど、「山田くん」は原作の持つ笑いのリズムをほとんど損なわずにそのまま映画に持ってきてるところが原作ファンにはうれしい。
一見平凡そうには見えるが、実は結構奥深い詫び寂びの世界がある、そんな作品なのかもしれない。
1999-08-07
何か足りないぞ、「となりの山田くん」
どうも違和感がある、あるとばかり思ってたら、まつ子、しげの二人はちゃんと関西弁なのに、なぜかたかし、のぼる、のの子の三人は全くの標準語。
ああ、原作にあるはずの、たかしの関西弁の罵声が、のぼるの関西弁のふにゃ〜とした弱音や言い訳が、のの子の「しもたー!」いう叫びが!!!
何でやーーー!!!
結局「火垂るの墓」は
何言わんとしとるのやろな。
これまで思わなかったのに、最近思うようになった。
「火垂るの墓」は暗いし、嫌や〜、という声もよく聞くが、私は暗い作品は好きな方である。
(蛇足だが、私の小学時代のこと、「小公女セーラ」なんてこれまた暗い作品があったが、これもほぼ毎週欠かさず見ていた。
「フランダースの犬」もいいね)
そして、あの戦時下の緊急事態でも無邪気なまま楽しく笑い転げたり、おままごとを続けたりしてる節ちゃんと、その周囲の世界の暗さとのギャップが、またその暗さを余計に増幅させている。
(これまた蛇足だが、この手法は反戦的作品の定石らしい。別の例として、いわさきちひろは共産主義の立場から反戦的作品を描いたが、それは愛くるしい子供たちを題材にした児童画で、「思わず抱きしめたくなってしまうかわいい子供たちを、むごたらしい戦争に巻き込むなんて!」ということなのである)
まさに嫌なくらい暗い作品であるが、それでもやっぱり見てしまうのである。
私の小・中学時代、国語の教科書には必ず一話は「かわいそうなぞう」「おかあさんの木」「一つの花」「夏の葬列」のような反戦文学があったし、学校の映画上映では(最近は16ミリ映画の上映会なんてなくてビデオらしい。昔の話だ)反戦映画を見せられたこともあった。
「戦争はみんな人殺しで悪いことだ。私だったら非国民扱いで牢屋に入れられるのを覚悟で断固、戦争にも徴兵にも反対しよう」などと、子供ながらに考えたものであった。
しかし今は考えがほんの少し違う(戦争に反対しないという訳ではないが)。
これまで私は、ただ反戦文学や反戦映画の解説者の受け売りばかりで、当時の日本人の置かれた状況を本当に理解してなかったのではないかと思うようになった。
そう、戦時下は状況が今とあちこち違っていたのである。
当時は英米をはじめとする強国がアジアやアフリカのあちこちの国を侵略し植民地としていた。
そこへ、白人から蔑視されている日本も入り込み、しかし彼らからは差別的扱いを受け続けていた。
それでも戦力をつけていき、彼らと互角に戦えるまでになった。
どれだけ互角だったかという一例として有名な零戦を挙げてみると、当時の飛行機産業は日本と米国は互角程度の技術があり、零戦はあのクラスの戦闘機で世界一(?)燃費がよく、また小回りも利いたので非常に強く、当初英米空軍を恐怖に巻き込み「零戦とだけは戦うな」と言われていたという。
ただし零戦は攻撃には強くても、軽量化を図るあまり防御が弱く、ちょっとエンジンを狙えばすぐ火を噴くことが後に敵にわかり、また米国ももっと強力な戦闘機を開発したこともあり日本は劣勢に追い込まれていったのである。
残念ながら零戦の最期は特攻機として、本来備え持つ空中戦の能力を発揮できずに洋上の花と散る無惨な最後であったそうである。
脱線してしまった。
日本は最初真珠湾攻撃に成功したが、ミッドウェイ海戦から劣勢に転じ、結局敗戦に至ったというあらすじだけは知ってたが、このような細かい状況なんて学校で全然習わなかった。
ただ、現代の平和主義的ものさしで測るなら、彼らは「戦争という人殺しに荷担した」とされるのだろうが、彼らはそのものさしを知らない時代に生きてきたことを忘れてはならない。
(当時共産主義者たちは戦争に反対しただって? いや、当時の日本共産党は、今で言う日本赤軍とか中核派みたいなテロ活動団体だったし(現在の平和路線に変わったのは戦後だいぶたってのことだった)、共産主義革命は暴力革命によって成し遂げるものであった。
なるほど、こんな状況ゆえにあの治安維持法(悪法ではあったが)ができたとすれば、納得できないこともない。)
当時は、日本人一人一人は大日本帝国という大きな組織の一員であった。
そして、組織で働き、組織に協力することが求められていたし、それは美徳でもあった。
また、組織を分裂させたり悪影響を持ち込むことは良くないことであった。
考えてみれば今の世の中も同じではないだろうか。
我々は会社組織で、地元の共同体で、働き合い協力し合うことが求められるし、それにたてつくなら今だって村八分になる。
だから当時「お国のため」と戦争に協力した人々を、私たちは笑えないのでは。
最近そう思うようになった。
誤解のないよう、最後に付け加えておくが、先の大東亜戦争そのものは良かったかというと、(敗戦となってしまった結果論として軍国主義の暴走が止まったなど良いものも幾分かあったとはいえ、)やはり問題点もあちこちにある。
持久力を無視した無謀な計画、作戦の失敗などにより、たくさんの兵隊さんの貴重な命や内地で支えている人々の命、国民の貴重な血税に多大の負担を強いられた。
犠牲を強いられたのは日本人ばかりでなく、一部の日本人に蔑視されながらも、日本を愛し、日本国民として共に協力してまでくれた大勢の朝鮮人も含まれた。
勝ち目のある戦争なら国民もまだ犠牲に甘んじていられたろうが、こうして当時の軍部は敗戦と共に彼らの期待を裏切る結果となってしまった。
戦時下の状況を扱った作品の鑑賞。
反戦作品はただ「戦争コワイ」の連発ばかりの論評もあるが、その受け売りに走らず、かといって戦争賛美という極端にも走らず、当時の状況をもうちょっと理解し、当時の状況を考えながら感情移入していく必要があるのかもしれない。
1999-08-10
きっぷにはさみを、チョッキンナ
駅の改札の話です。
私の住む千葉県では、十年くらい前、つまりJRの自動改札導入前から、はさみによる入鋏からスタンプによる入鋏に変わってしまい、はさみのカチカチという音は改札から姿を消してしまっていました。
今では、内房線なら君津駅まで全駅自動改札になり、それより南の田舎の駅も、スタンプによる入鋏あるいは入鋏省略となってます。
千葉県の話題からは外れますが、周りの駅がみんなイオカード対応の自動改札なのに、一ヶ所だけイオカードが使えない「穴の空いた」駅というものがあります。
その一つが南武線の分倍河原(ぶばいがわら)駅ですが、どうしてなのでしょうか。
長らくの疑問を解決すべく、分倍河原駅まで小さな旅を。
結論は、これでした。
分倍河原駅の改札には、あの懐かしいはさみの音が、今でも鳴り響いています。
改札口で駅員さんに切符を渡してはさみを入れてもらった、あの幼き日の思い出を蘇らせてくれる駅です。
そういえば、子供用の電車ごっこセットでは、今でも切符と一緒にはさみが付いてますが、平成世代の子供たちはこの「はさみ」の使い方を知っているのでしょうか。
本や映画でしか見たことがない、あるいは全く知らない子が多いだろうと思いますが、それでも今でも付いてます。
そのうち、この「はさみ」すら電車ごっこセットから消えてしまい、自動改札のおもちゃが付くようになる時代が来るのかもしれません。
時代の流れとは言え、ちょっとさみしいものです。
1999-08-22
原子爆弾の作り方
現在「NHK世紀を越えて・核兵器」が放送されています。
原子爆弾の作り方は、「原子爆弾の作り方を載せている危険なホームページ」を見なくても、この国営放送の番組で堂々と知ることができます。
おたくのお子さん、今NHK見ていませんか?
お子さんがテロ活動を起こす前に、早くテレビのスイッチを切りましょう。
# もちろん本気じゃなくて皮肉です。「原子爆弾の作り方」を載せているホームページがあるのでインターネットは危険だなどと主張しているお方も多いようですが、これはせいぜい参考資料程度にしかならない代物ですし細かいノウハウまでは載っていません。それに、いちいちインターネットで探してみなくても、何と天下のNHKがちゃんと放送してくれたのです。そもそも、ウランかプルトニウムを手に入れることすら困難だというのに、こんなチャチな資料だけでどうして原爆が作れるとでも言うのでしょう。
1999-08-29
右翼との遭遇
今日、駅前で私の車の横を追い抜いていった黒塗りのワンボックスカー、スピーカから大音量で流れてたのが「若鷲の歌」(*1)のメロディだと思いきや、よくよく歌詞を聞いてみると、その右翼結社名入れた全くの替え歌だったので、思わずズッコケてしまった。
(*1) ♪若い血潮の予科練の七ツ釦は桜に錨……
CD-RWが初期化できん
今日ほかの家でCD-RW環境のインストールやってきたけど、あのドライブ、CD-RWを焼いてる最中で焼きに失敗すると、そのディスクをWinCDRで初期化しようとしてもメディアが読みとれずハングアップして元に戻せない……
何でや〜〜〜〜!!!
おかげで高価なCD-RWメディアで2枚も土瓶敷きを作ってしまった。
元に戻ればいいのだが、どうもうまくいかん…
教訓:CD-RW環境のインストール時は、テストはまずCD-Rからやるとリスクが小さい。それに、CD-RWでもコースター(or土瓶敷き)が出来てしまうことがあるらしい!??
1999-10-04
スタイルシート
(今は少ないながらも)スタイルシート未対応のブラウザの方はごめんなさい。
「はなごよみ」にも、少しずつスタイルシートを導入してます。
本文文字が明朝体の12ポイント、題名部分はあのつぶれて見苦しいゴシック太字(MSIEの場合)でなく細字明朝体に緑色の背景色。
特にこの題名部分が変わるだけでもかなり印象が違うものです。
また、リンク部分もちょっと変わってるのにお気づきかと思います。
もっとも、スタイルシート未対応のブラウザでもそこそこ表示できるようにはしてる……つもりですが(でもうまく表示できない方是非お知らせくださいナ)
あと、「はなごよみ」を「お気に入り」に追加すると花形のアイコンになります。
これってWindowsのアイコン形式でfavicon.icoというファイルを入れておくだけでできます。
Windows用アイコンエディタをお持ちの方は是非お試しを。
1999-10-19
過剰な“差別”用語自主規制
今日、日本テレビで手塚治虫の「リボンの騎士」の再放送があったが、その中でチンクの見つけた貝殻から小人が出てくるシーンがあった。
ところが、チンクやサファイヤのセリフが、「貝から(無音)だって?」のように、ところどころ無音になってしまって、非常に気になった。
もちろん、無音部分には「小人」が入るだろうことは九割方確実であるが、普通に考えれば何も問題ではなかろう。
恐らく「小人」は小人症(身長が異常に小さなままの病気)の人に対する差別だと抗議する“クレーマー”がいるのかもしれない。
全く「気違いじみた」話である。
その他にも、気違い、小使さん、乞食、支那そば、シナチク、つんぼ、土方、土工、土人、ニコヨン、人夫、浮浪者、盲、ロンパリ、などの言葉は現在放送できないようである。
過去に私たちが普通に使ってきた言葉が、テレビでは現在使えないようであり、生放送で「気違い」という言葉をつい発するだけで始末書を書かされる始末だという。
また、私たちが幼児期にみな親しんできた絵本「ちびくろサンボ」が、ある差別反対者からの抗議によって絶版に追い込まれたのも記憶に新しい。
特撮マニアなら、「ひばく星人」が問題になった「ウルトラセブン12話」の話をご存じの方も多いだろう。
もちろん、明らかに差別的にしか使われない用語を制限することに私は異存無いし、被差別者への偏見や誤解を助長するような風潮は正さねばならぬ。
しかし、最近の「差別用語狩り」は、あまりにも極端すぎるように思えるのである。
例えば「めくら」は目の見えない人間という意味以外の何ものでもないし、もともと盲人差別のための用語でもない。
もちろん中には「めくら」を差別用語的に使った人間もいただろうが、それは本来の使い方ではなかった。
要は使い方の問題なのである。
それなのに、なぜマスコミはこれらの言葉を自主規制するのか。
それは、行き過ぎた差別反対者や差別反対団体があったり、あるいは差別をネタに脅迫して金をゆするような団体があり、それらから抗議があると、テレビ局は反論もせずすぐ引っ込んでしまうのである。
また、裏でかなりの嫌がらせや脅しもあるらしいとも盛んに噂されている。
その“クレーマー”からの抗議が明らかな言いがかりであるなら、臆することなく闘って欲しいと思うものだが、現実はそう甘くないらしい。
残念なことである。
その後……
ちょうど同じ日に、千葉テレビで「まんが世界昔ばなし」の再放送があり、今日はガリバーの冒険の話だったのだが、「小人」とか「小人の国」という言葉が無音にならず堂々と、何度も何度も出てきた。
どうやら、テレビ局によって基準が違うものらしい。
1999-11-12
命知らず?
私が「パソコン便利帳」に、秋葉原のオウムショップに関する情報を載せていることで、オウムを敵に回すといつ暗殺されてもおかしくないから、やめた方がいいと言われたことがあった。
私は、オウムショップの存在は知っていても店名まではわからず、結局オウムショップと知らずにそこでPCを買ってしまった人を何人か知っている。
そこであのようなページを作ったのだが、しかしオウムに狙われるうんぬんは考えすぎのように思う。
どの店がオウムショップかはマスコミさえ堂々と報道する周知の事実となった現在、もはやマスコミの口もインターネットの口も封じられないオウムのような団体をなどて恐るる事やあろう、むしろ、マスコミの口を封じられる団体こそもっと恐るべき団体なり。またマスコミの口もインターネットの口も易々と封じてのける団体こそ、敵に回すとこわい団体なり、と最後に付け加えておく。
いくら命知らずの私でも、書きたくても命が惜しければペンでは書けぬことが世の中には他にも沢山存在することは知っている。
正義とは権力で赤子の手のようにひねりつぶすことができるほど、時にもろいものとなる。
その時、我々はただ涙をこらえながら、ただ堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶしかないのが、悲しくもこの世の現実である。
ああ、これを悟ってしまうとは、昨日の夢見る少年が一日のうちに夢忘れし大人になってしまうような、物悲しさよ。
1999-11-25
同期の話
同期言うても「同期の桜」やありまへん。ファイルの同期(synchronization)の話や。
ホームページは自分のパソコンのハードディスク上にホームページのファイルを作成し、後にプロバイダに転送するのが一般的です。
しかしうっかり転送を忘れてしまうと、自分のパソコン上では新しいファイルだと思いこんでいても、実際にインターネットから見えるプロバイダ側には古いファイルが残っているなんてことになりかねません。
こんな理由で、「ご意見をどうぞ」のフォームが古いままでしばらくうまく作動していませんでした。
こちらのミスです。
不具合をお詫びいたします。
1999-12-10
ふらんす人形
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1999-12-23
季節ネタ
これ、何の歌のイントロ?