1998/02/26
現代社會はPolitical Correctness(直譯[チョクヤク]すれば、政治的正しさ)等と云ふものの爲、「めくら」「つんぼ」「ゐざり」など樣々な言葉が死語となつて仕舞つた。
しかし、これは形だけで終つてゐるやうな氣がするのは、私だけでは有るまい。
明治三十五年(西暦1902年)の修身教科書には、「おたけが、めくらのてをひいて、しんせつに、みちををしへてゐます。」とある。
當時(タウジ)「めくら」等と云ふ言葉が廣(ヒロ)く使はれており、教科書ですら用ゐてゐたからといつて、國民は盲人を輕蔑するやう教へられてきたかといふと、實際(ジッサイ)はその逆であつた。
大東亞戰爭後、米帝國占領軍により「修身」が廢止された爲、現在は「道徳」に變(カハ)つた。
しかし、その「道徳」の授業で何を教はつて來たか、皆さんは覺えてゐるだろうか。
もちろん、私は昔のまゝの「修身」を復活させるのには反對(ハンタイ)だし、天皇崇拜を推しすゝめる内容など幾つか問題點(モンダイテン)は有るだろう。
だが、戰後の「道徳」は戰前の「修身」ほど子供たちに影響を與(アタ)へて來たとはどう考へても云へない。
むしろ、曲がりなりにも、「修身」の方が、まだマシだったやうに思へるのは、私だけではあるまい。
皮肉なことに、多くの學校で「道徳」の授業時間は、時間割だけに存在し、ほかの豫定(ヨテイ)で容易につぶされてゐるのが現状である。
話を元に戻すが、最近はPolitical Correctnessといふ言葉により、禁止用語がいたづらに増やされてゐる。
しかし、特定用語を禁止するだけで、弱者への配慮を教へることになると勘違ひしてはならぬ。
「めくらを助けた、おたけさん」の建設的な寓話もあれば、「あんた身障?」と輕蔑的に代替用語を用ゐる現代人もゐるのであり、禁止用語などといふものに騙されてはならぬ。眞の問題は使用法なり。
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