「いじめは、いじめられる奴が悪い」

2000/10/28

つい3、4年前までは、こんな意見を聞く度に「それは違う」と激しく反論していた私だが、今では「それもそうだな」と、がらりと意見が変わってしまった。

私も、平和と安全を貪る程満喫できる大人になった故に、弱者の視点を忘れつつあるのだろうか。弱者の味わう抑圧と恐怖、それを知りながら自分の今の力ではどうしようもなく、他人も助けてくれないもどかしさを忘れつつあるのだろうか。

しかし世の中は弱肉強食のジャングルの掟であ(り、それを辛うじて個々の人間の理性や良心や愛情がブレーキをかけて成り立ってい)る。そう考えると、「いじめは、いじめられる奴が悪い」という考えも「いじめっ子に隙を見せるな、隙を見せたが負けだ」という警告ならば、これもまた真と言えよう。

また、自分の我儘や甘えや悪事を正当に糾弾されたことに不満を持ち「いじめ」扱いして被害者ぶることも、よくよく考えると多いものである。恥ずかしながら私も幼い頃そのような経験があった。このような「いじめ」は自業自得である。否「いじめ」ではない。

そのような意味で「いじめは、いじめられた奴が悪い」という言葉が使われることがあることには、私は年を重ねるにつれ納得がいくようになってきた。

しかし、私はこの言葉を不用意に使うことは慎むだろう。“被害者”の主張が正しくて無実である場合も、“加害者”の意見が正論である場合もあり、いろいろなケースを十把一絡げにはできない。「いじめは、いじめられた奴悪い場合がある」というのが、より正確である。

「お前のせいだろ、まずはテメエでどうにかしろ!」と、甘ったれた被害者にハッパをかけることも時に必要かもしれない。しかし、全く知らんぷりも解決策にはならない。加害者に自制を、被害者には一人で問題に立ち向かえるだけの、いじめ対策の知恵と力を教えることが是非とも必要である。

正義を愛し悪を憎む心や、勤勉さの価値や、自制の大切さ、弱者へのいたわりなど、人として当然のことを、戦後の学校教育や家庭で教えてこなかったつけを、今になって私たちは払わされている。確かに人生は綺麗事ではない。しかしその綺麗事を教えられなかった人間は、本能のみにより生きて理性を持たぬ獣(けだもの)に堕ちるのみである。「人の生くるはパンのみに由(よ)る」訳がない。

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