延命処置考・葬式考(1/2)

2004/05/10

「延命処置」と聞くと、「回復の見込みのほとんどない脳死状態の人間を、点滴と人工呼吸器で何日も無理矢理生き延びさせる」という印象を持っている人が多い。私もかつてそのような考えを抱いていた。「そんなことをするなんて可哀想だ。回復の見込みがないなら、その場で人工呼吸器も取り外して自然に任せた方が良いではないか。人工呼吸器などというハイカラなものがなかった昔は、最後は畳の上で静かに死なせてやったものだ」と。

だが最近、現実の状況に遭遇して少し考えが変わった。確かに、回復の見込みがほとんどないのに、いたずらに何週間も何ヶ月間も延命処置を施すというのでは、果たして患者の為になっているのかどうか疑問に思う人もいる。付き添っている家族の方も参ってしまう。ここまでして延命治療したくないと考える人も多いだろう。

しかし、せめて息を引き取るまでの最後の時間を、できるだけ苦しむことなく過ごさせてやりたい、こういう考えに基づく延命処置は、むしろ患者と家族双方のためになるかもしれない、ということに気付かされた。

脳死と判断された時、まだ感覚が残っているうちにいきなり人工呼吸器を外して、いきなり苦しみながら死ぬ様子を見るよりは、最低限、人工呼吸器を付けて、リンゲル液や必要に応じて症状緩和のための薬剤は投与し続け、だんだん感覚が鈍っていきながら体の各器官が徐々に機能を停止し、最終的に心停止を迎える。こういう穏やかな死も良いではないか、そう考えるようになった。実際、私もそのような状況に居合わせたのだが、周りで介護している側としては、確かに死ぬまでの間は、心拍数や血圧などのモニタさえあれど、生きるか死ぬかの先行きなど全く見えず、まるで行けども行けど果て無きぬかるみを行軍しているかのようで、一日一日が本当に長く感じられる。けれどもこの時間が、家族にとっては、俄(にわか)には受け入れがたい「迫り来る死」という現実と向き合い、それを徐々に受け入れ、心の整理をする時間ともなる。そして、数日かけて覚悟がようやく決まった頃、突然に心電図の波形が乱れ始めるが、それほど大きく取り乱すことなく、最終的に患者の心停止を迎えることができるというものだ。後に棺に収まることになるが、窓ごしにのぞく姿が本当に安らかな、まるでまだ生きていて今にも起き出しそうなほどの美しい寝顔で、普段はグロテスク嫌いの人であってもほとんどショックなく最後の対面をしていたのが印象的だった。

もちろん理性的に考えるなら、脳死状態の人が人工呼吸器を外したら苦しんで顔をしかめるなんてことは無いだろう。どこまで感覚が残っているかもわからない。だからいきなり人工呼吸器を外すのも確かに一つの選択だ。また、患者や家族が臓器提供を希望しているなら、自分は死んでも臓器が他の人の一部となって生き続けることこそ本望だろう。しかし家族の感情として、そんなのは可哀想だと思うなら、適切な範囲の延命処置を施すのが良かろうし、家族の気持もそれで救われるだろう。こういう選択肢もある。

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