おたくバッシングの背後に有る基督教的純潔主義

2005/01/10, 11

私が思ふに、「童女が題材のいかがはしいアニメや漫畫に熱中して居るなら、現實と虚構を識別出來ずにいつか犯罪を犯す」と云ふ紋切り型とは、要するに基督教的純潔主義ではないだらうか。つまりイエス・キリストの言葉として聖書にある

「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等(なんぢら)きけり。されど我は汝(なんぢ)らに告ぐ、すべて色情を懐(いだ)きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。(聖書・マタイ傳五章二十七〜八節)

である。

ところが世間は、此の考へを極一部にしか適用しない。つまりおたくバッシングの時だけ都合良く適用し、其れ以外の時は「人間の慾望には捌け口が必要」「その捌け口こそ慾望をコントロールする手段」とのたまふ。其れはお前らが叩いて居るエロ系おたくの何時もの言ひ譯と全く同じだらうと野暮な突つ込みの一つもしたくなる。

さて私は「現實と虚構を識別出來ない」といふ考へに長年違和感を懷いてゐたのだが、それもその筈である。私はこの「虚構」とはアニメや漫畫の世界其のものを指すと思つて居たが、私は健全作品專門マニアだから、たとへば少女向けアニメとか少女漫畫とか見たところで、其こに彼らの云ふやうないかがはしい要素など無いではないか、其れがどう犯罪と結び附くのか、と思つてゐた。しかしどうやら此の場合の「虚構」とはさうでは無く、鑑賞者の心の中の空想を指してゐるらしい。「アニメおたくなる者はアニメのヒロインをみだらな目で見て、心の中にそんないかがはしい虚構の世界を作り上げてゐるに決つてゐる、そして其れがいつか爆發して現實世界にやつて來る」といふのが、其の言葉の意味だつたのだ。

成る程、さう云ふ意味であるなら、心の中の空想が現實の行動に多かれ少なかれ影響する可能性は考へられるだらう。しかし一口にアニメや漫畫のマニアと云つても、色々な主義の人が居る。心の中にいかがはしい劣情の火を全く蓄えようともせず、清く正しく樂しまうと心に決めて居る人はどうなのだらう。私はむしろ、其のやうな鑑賞法はむしろ逆に譽められるべきではないかと思ふ。心のヨゴレが現實に滲み出て來るものなら、心の清さも現實に滲み出て來る。たとへ空想の世界であつても、女性をモノでもオモチャでも聞き分けの良い奴隸でもなく、人間としての人格を尊重する態度を示す人は、現實世界にもきつとその良い影響が滲み出て來るに違ひないし、空想の世界で少女の心の痛みがわかる者は、現實の世界にも其の良い影響が活きて來るだらう。このやうに、使ひ方次第では、老若男女の良い心を育む爲に善用出來るだらうから、其れを見逃さない手は無いと私自身は考へる。

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