国語教育の常識を疑え

2002/12/03

「普通教育に古典・漢文は要らない、高等教育で教えれば十分だ」?

私は断固この考えに反対である。「知識の分断」につながる。文語文とか歴史的仮名遣いはエリートに任せておけばいいやという態度によって、古典どころか高々半世紀前の正字正仮名遣いの文章を、今や読めない(正確には、読もうとせず抛棄する)人が多い。

エリートだけが1940年代より昔の歴史・文化を独占して良いのか。庶民が当時の文献を読めないのをいいことに、昔の真実の歴史をいわば封印し、代わりに妙なイデオロギーに染まった解釈によって偽りの歴史を広める時代が来るだろうなんてことは、もはや洒落ではなくなってきている。

それだけではない。横文字の氾濫を防ぎたいのなら、古典・漢文はなおのこと必要である。明治の偉人たちは文明開化の時期に、新しい物事を言い表す沢山の英語の言葉を、和語・漢語に翻訳した。和語に翻訳するには豊富な大和言葉の知識が必要であり、漢語に翻訳するにはやはり漢文の知識、つまりどのように漢字を組み立てて意味を作るかの知識が必要となってくる。

なぜ明治時代に生まれた訳語が今でも沢山生き残っているか。それは、その訳語が秀逸だったからに他ならない。残念ながら私たちは、明治の偉人ほど秀逸な訳語を生み出せるだけの十分な知識を持っていないから、たとえ和語・漢語に訳したところで駄作に終わってしまいがちで、結局、英語の音訳に頼るという安直な方法を取らざるを得ないのだ。

もっとも、細部にまで突っ込んだ研究は興味ある人に任せるが良いだろうが、しかし基礎知識程度は学んでおくと、我らが母国語を深く知り、また骨の髄まで有効活用するのに役立つだろう。これは日本語に限った話ではない。日本語に漢語の知識が必要なのと同じで、英語を学ぶ時も、ギリシャ語や(死語である)ラテン語の知識をチョットでも持っていると面白いものとなる(ラテン語で作文ができるように、までは必ずしも必要ないまでも)。たとえばhydro-の付く言葉はギリシャ語で水の意味、aquaの付く言葉はラテン語で水の意味から来ているといったことがわかると、長い専門用語も単なるアルファベットの寄せ集めではなく、きちんと意味を持った言葉の集合体であることがわかって、理解しやすくなるのだ。

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