「ジェンダー・フリー」は正しいか

2003/02/20

結論から先に言うなら、ある程度の男女平等はやはり必要だ。しかし行き過ぎはよくない。

そもそも、脳にも平均的な男女差があることが最近の研究で明らかになっている。つまり、「男らしさ」「女らしさ」というものは、人間の平均を取るならば生物学的に確かに存在するというのだ。

たとえば男は平均的に空間認知能力に優れていて、地図を見て自分がどこにいるのかすぐわかる人が多いという。女は言語能力に優れていて、昔も今もおしゃべりが多いのは皆さん御存知の通りだろう。

しかし、この傾向は、あくまでも平均的なものであることを忘れてはならない。男にも方向音痴やおしゃべりは多いし、女にも地図を見るのが得意な人や無口な人は確かにいる。

男女差は確かに平均的にあるものだから、男の子が生まれたら自動車や汽車ポッポやロボットのおもちゃ、女の子が生まれたらお人形さんやおままごとのおもちゃを与えるというのは、間違ったことではない。もし逆をやったら、そのおもちゃが無駄になる可能性が高い。

しかし、その傾向はあくまでも平均なのである上に、兄弟姉妹や友人の影響も容易に受けるのだから、平均から外れた子供が出るのは特段珍しい事ではない。生まれもってか、異性の兄弟姉妹に囲まれてか、お人形さんやおままごとが好きな男の子もいれば、自動車や汽車ポッポやロボットのおもちゃが好きな女の子もいる。実際には、「男の子(女の子)のくせにこんなおもちゃで遊んで」などと友人や親が言うので、大方は恥ずかしくてやめてしまい、平均に戻ってしまうものだ。

私もかつては穏やかなジェンダー・フリー論者だったが、今ではその考えを撤回している。ジェンダー・フリー論者がなぜジェンダー・フリー論者になったかというと、自分が男女の平均から外れたために嫌な思いをしたからではないか。実際私もその一人だった。

しかし、ここで考え方を変えてみよう。社会すべてが変わる事、まるで男女ともユニセックスのジャージかユニクロを着ているみたいな社会に変わることを願うのではなく、まずは自分の考えを変えてみるべきではないだろうか。つまり、自分が「男らしさ」「女らしさ」の平均から外れていても、それが極端なものでない限り、別に恥ずかしがることではないのではないか。男が少々センチでもよい。女が少々おてんばでもよい。「男らしさ」「女らしさ」の平均を自らかきまぜるべく、周りにも強制するのではなく、寄らば大樹の陰という安楽な立場を捨ててでも茨の道をあえて選んで平均から外れた自分を誇ればいいではないか。大体、ジェンダー・フリーの考えは、極端になると、今度は男女を無理矢理均一化し、新たな平均から外れた者つまり「男らしい男」「女らしい女」でいる人を否定する、という新たな差別になる。私は昔も今もこんなことは望んでいない。

もっとも、たとえば家庭の事情ゆえに働きに出る主婦を「女らしくないしあまり良いことではない」などと後ろ指さす傾向は、私もあまり好きではない。私自身、女は家庭を守るのが理想だと考えてはいるが、助産婦をはじめ女の方が向いている仕事もある上に、特別な事情があるなら仕方ない。それに、女にだって自分が働きたい仕事の夢はある。大体、農家は昔から共稼ぎが普通だったのだし、女が働くというのは悪い事でも何でもない。こういう傾向については改善されるべきだと思う、と、最後にフォローしておく。

*)戻る