子供の純真無垢さはうらやましい性質か

2003/02/21

確かに子供は一般に純真無垢だ。しかしそれが必ずしも良い性質ばかりとは限らない。

私も、二十歳になったばかりの頃は、子供は純真無垢で、そこが良い性質だと思い込んでいた。しかし今ではこの考えを撤回している。この純真無垢さは時に残酷であることがある。

よく「子供は大人みたいな強欲さがなく純真無垢でうらやましい」と言う人がいるが、はっきり言おう、それは間違いである。子供ほどの強欲の権化は、自分の欲望を制御できない者はいない。自分の欲望が満足されないと泣いたりわめいたり、まるでひっくり返ったゴキブリみたいにダダをこねたり。権力欲だって負けてはいないことは、ままごと遊びで誰が母親役をやるかでよくモメるところを見ればよくわかる。こういうのを大人げないと言い、子供は大人にしつけられることによって、そのような欲望をコントロールする術を身に付け、人間的に成熟するのだ。

「子供は大人社会の苦労を知らない純真無垢さがうらやましい」と言う人もいる。しかしこれも「昔は良かった」という単なるノスタルジアに過ぎないだろう。しかし昔は悪かった、不便だった部分もあったことを忘れてはならない。たまにキャンプ生活を楽しむことはあっても、誰が好きこのんで毎日洗濯板で洗濯したり、毎日薪を割ってカマドで飯を炊くような生活に戻りたいと言うだろうか。私は蓄音機のサウンドが大好きだが、CDが廃止されて全部モノラルのSPレコードに戻るのは不便でしょうがないから大反対だ。同じことで、子供時代には子供時代の苦労があったものだ。今みたいに好きな物を何でも自由に買うわけにはいかず、少ない小遣いからやりくりしたものだし、今みたいにどこでも自分の車で自由に行かれなかったし、宿題は大変だったし、受験勉強はもっと大変だったし、両親や先生の命令がどんなに理不尽でも従わなくてはならなかったし、いじめだってあったかもしれない。親を失ったり、親が離婚したり、あるいは親に虐待を受けるといった精神的ショックを受けた人もいるかもしれない。まあ、これは大人だって似たようなものだけれど、まだ精神的に成熟していない幼児期や少年期には、今考えると小さなことであっても当時は大きな苦労だったし、その時の苦労は、現在の苦労を耐え忍ぶ訓練になったわけだ。

純真無垢さとは、たとえるならば仔羊のようである。親羊や飼い主によくなつくし、可愛い。しかしその一方で、急な崖など危ないところへも平気で行ってしまうし、羊泥棒や狼の危険も知らない。飼い主が晩飯のためにつぶしてしまおうと考えていても、平気な顔してほふり場へノコノコ付いていく。

大体、子供が“大人の世界のどす黒い悪い部分”を知らないことが、本当にうらやましいことなもんか。むしろ私は可哀想に思うくらいだ。確かに人をよく信じて従うのは良い性質だし、そんな子供を見て自分の頑固さを反省するのは良い。しかし、それ単体では危なっかしい。単に純真無垢なだけでは、弱肉強食の世界にあって、未熟さの証に他ならないのだ。結局、そういう未熟な仔羊は、親羊や飼い主が守ってやらなければならない。

大人は子供の純真無垢さを本当に良い性質でうらやましいと思っているのだろうか。もしそうでないとしたら、恐らく本能的な母性愛や父性愛に基づくものではなかろうか。その未熟さが微笑ましい、つまり「子供という、いわば人間のミニチュア」が小さいながらもけなげに生きている様をいじらしく思うとか、子供が純真無垢だからこそ守ってやりたいと思う、ないしは大人に依存し甘えることを期待しているだけなのかもしれない。もちろんこれ自体必ずしも悪い事ではなく、むしろ人間の自然な愛の発露である。

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