男女平等のため、男は女の上に立つ頭でよい

2003/11/15

近頃はジェンダーフリーの風潮のためか、「男は女より上位という考えは古臭い」と思われているようだが、洋の東西を問わず、男は女より目上のものと看做されてきた。

はっきり言おう。私は「ウーマンリブ」だとか「ジェンダー・フリー」だとか「男女同権」だとか、そんな言葉聞いてると虫酸が走る。奥さんが旦那を「主人」と呼んで何が悪い。父親を家族の頭に立てることのどこが悪い。男がリーダーシップを取ることのどこが悪い。

こんなことを言う私を、反動的だ、差別主義者だと罵ってつばを吐きかけるがよい。しかしその前に、私の話を聞いてくれ。

生物学的には、男よりも女の方が強いものである。乳幼児の生存率からしてそうである。それに、フェミニストの言う男女平等が家庭内に行き渡ったところで、実際には逆に母親の方が父親より圧倒的優位の立場を得ることになる。困った時に「お父ちゃーん」と父親に泣きつく子供よりも、「お母ちゃーん」と母親に泣きつく子供の方が昔も今も圧倒的に多いことからしてもわかる。なぜなら、子供にとって母親とは、胎内にいる時からずっと親密な間柄であり、乳児の頃はいつもおっぱいを飲ませてもらい、その後も家にいる時間の長い母親といる時間の方が、父親といる時間と比べて圧倒的に長いから、父親より仲良くなってしまうのは当然だ。この点で、男は圧倒的に不利な、生まれついてのハンデを背負っている。

女は子供を産んで育てて、家庭を守れて、仕事もできる、となると、男なんか要らない、男は家族のお荷物だ、厄介者だ、となってしまう。そうすると男は家庭から逃げてしまうだろう。だがそれは良くない。生物学的ハンデを、何かの方法で釣り合いを保つ必要がある。それを解決する手段として昔から取られてきたのが、社会的ハンデ、つまり「男を女の上に頭として立てる」という方法である。つまり、このままでは家庭内の仕事がなくなってしまう男に、「一家の主」という仕事を与え、否が応でも家庭に引っ張り込んで家族に貢献させるようにしたのである。「主」という権威付けも大切である。それがなければ、女の生物学的な強大な権威の下に、男は霞んで見えなくなってしまう。そうなると、ただの下男と同じ扱いだ。

男を女の上に立てる意味は、単に生物学的ハンデを補うことにとどまらない。中学の社会科で「三権分立」について学んだことだろう。王様が法律を決め、法律に従って国を治め、法律に従って裁くとなると、良い王様ならいいのだが、悪い王様なら、自分に都合の良い法律を決め、自分に都合の悪い人は法に従って殺していくという、とんでもない国になる。そこで、「立法」(法律を決める)「行政」(法律に従って国を治める)「司法」(法律に従って裁く)の三つを、独立した機関に分ける事によって、そのような事態を最小限に抑える工夫が、日本を含め今の多くの国にある。

男と女では二人しかいないので三権分立は無理だが、しかし権力を分散するという考えについては、同じ事が言える。生物学的に子供と接する時間や家庭にいる時間が多い母親は、いわば「行政」である。しかし行政にはチェック機関も必要だ。父親は「司法」ということになろうか。「立法」については、両者が話し合って決めているという家庭が多いかもしれない。ただし、何もかも厳密に区分できるものでもないだろう。父親が行政を行う分野も時にはあるし、母親が子供を叱るというのは立派な司法だ。しかし、専門分野という点からするなら、先に挙げたような区分が近いかもしれない。

もちろん、権威は圧政の免罪符ではないし、私は男が暴君のように女を扱うことをよしとしているわけではない。それでは、せっかく男に与えられた権威を濫用していることになる。そればかりか、圧政の不満が、行き過ぎた「ジェンダー・フリー」「男女同権」思想となって男に反撃する世の中、男にとって住みにくい世の中になり、結局自分自身の首を絞める結果となりかねない。最後にフォローしておく。

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