後悔公開講座
しょうじょ‐しゅみ【少女趣味】セウヂヨ
少女に共通した好みや傾向。甘美で感傷的・夢想的な情緒を好む傾向。
(岩波書店発行「広辞苑」第五版より)
「少女趣味」は、しばしば「リボンとフリル」という言葉で形容されます。男の目には、まるで役に立ってない無駄な布きれでも、夢見る乙女の目には憧れの世界。
あ、別に男がリボンやフリルをまとう話ではありませんから誤解しないように。
しかし、最近は女の子たちでさえリボンもフリルも捨てようとしている、この時代の流れに、女らしい乙女たちがいた懐かしい昔を思い出し、「もののあはれを思ふ」もの。
黒柳徹子著「窓ぎわのトットちゃん」をお読みになった男性諸氏の多くは、この本を教育問題や戦時下の歴史について考えさせる本として興味深く読んだに違いない。
しかしながら、同著の文庫版あとがきによると、男性読者には「タレントが書いた」「表紙が女っぽい」という理由で、最初のうちは敬遠していた人も多かったらしい。
なるほど、いわさきちひろの柔らかなタッチの水彩画は、どちらかというと絵本的で、成人男性の中にはちょっと敬遠してしまう人もいるのかもしれない。
しかし、家人がどうしてもとすすめるので読んでみたところ、本当にいい作品だったことを発見したという。
この例からわかるように、読む本を先入観を持って「食わず嫌い」するというのは、本当に惜しいことをしているものである。
こんなページを作っている私なので、さぞ少女漫画に詳しいだろうと思われているだろうが、実は私自身は、少年漫画も少女漫画も、にわか造りの付け焼き刃程度の知識しかない。むしろ、一般人に比べたって読んでない作品だらけである。
普段の読書は専門書や難しい本からいろんな小説や随筆まで、漫画も今では前ほど読まなくなったが、かつては「水や空気のようにどこにでもある」少年漫画ばかりに偏っており、少女漫画や少女小説は、(漫画を含めた)読書全体からするなら「おやつ」「日曜趣味」程度であった。
それでも、読書の幅が広がるというのはとてもいいことである。これまで知らなかった世界を知ることになり、視野を広げたり感性や話題を豊かにするメリットもある。
少女漫画や少女小説といった少女趣味、乙女チックな世界を味わうということは、これまでそれらに一切触れたことのない男児に一朝一夕にできることではない。違う世界から物事を描いているように見えて、何がなんだか理解不能というのが普通であろう。だからたいていの男性は、少女漫画を少し読み進めたあたりで、「わからん!」と叫んで放り出すことがほとんどだろう。
私もかつてはそうだった。そのような作品は面白そうだという憧れがいくらあっても、どうもその世界を味わうということができなかったのである。
しかし、それを理解できるようになる瞬間というものは、突然にやってくるものである。ちょうど昨日自転車に乗れなかったのが嘘のように、今日すいすいと自転車に乗れるようになった子供のように、リリカル(叙情的)な世界の味わい方、「絵のポエム」なる少女漫画の鑑賞法が、突然、自分のものとなるのである。そして、自分の視野も広がり、きっと感性も豊かになるであろう。
「実は私も少女漫画ファンなんだけど、このことが女性に知られたら変態に思われるんじゃないか」と心配している男性諸氏は多いことだろう。
こんな女性も確かにいるけれども、その一方で、自分の大好きな少女漫画作品を男性にも読んで欲しいと思っている女性もまた多いのである。中には自分のお気に入りの作品を、あんまり気乗りしてない男性へ押しつけて読んでもらう人もいるくらいである!
とにかく、共通の話題ができるのは、うれしいことではないか! 本などの交換もできると、なおうれしいネ!
残念ながら、古書店での少女漫画の評価は少年漫画より低く、少女漫画の買い取りお断りの店も多いし、少女漫画は一般的に少年漫画より値段が安く付くことが多い。見切り品や特価品コーナーでかなり安く売られていることもしばしばある。(昔の「お宝」ものにしても、少年漫画で十万円単位のつく漫画はよく見かけても、少女漫画で万単位の付いているのを見かけたことなど、ほとんどない。)
しかしこれは、逆に考えるなら、あまり財布を傷めずに作品を楽しめるというわけで、メリットとなるのである。
本当のところを言うと、こんなに廉価に入手できなかったり、巻数があまりにも多すぎたりしたなら、恐らく私は少女漫画を読んだり集めたりしようなんて思わなかっただろう。
少年漫画の単行本で10巻を超えない作品はほとんどが短期連載か連載中止作品というわけで珍しく、一作品全部を読もうとすると数十巻集めなくてはいけないことがほとんどである。
それに対し少女漫画は月刊誌連載がほとんどであるためか、10巻を超える作品の方が珍しいくらいである。したがって、少年漫画一作品の単行本を揃えるだけの金額で、少女漫画の単行本が数作品も揃えられてしまい、集めやすくお得なのである。
家族に姉妹のいる男性は、そうでない男性に比べ、一般的に少女漫画に詳しいし、それがきっかけで少女漫画好きになった人も多い。
しかし、そんな家庭でなければ、男性に少女漫画などいかにも少女的な本などを与える奇特な親などまずいないだろうし、何かのきっかけで自分から興味を持たなければ、恐らくそんな世界に触れずじまいであろう。
「赤毛のアン」が好例であろう。多くの男性にとってこれは、「まあ、なんてすばらしいんでしょう、みたいな大げさな感動詞が延々と続くような作品で、よくわからない」というのが第一印象であろう。あのような少女的な空想の世界というものは、男性にとって一朝一夕に理解できるような代物じゃあ、ない。リボンとフリルのたくさん付いたドレスを来たフランス貴婦人たちが舞台で歌ったり踊ったりする、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」の世界に、すぐに入っていける男性はどれだけいるだろう。吉屋信子の「花物語」に代表される大正〜昭和初期の少女小説に見られるような、繊細で感傷的な世界も同様である。
何ヶ月、何年かこういう作品を鑑賞して「ああ、なるほど、こんなことだったのか!」と悟れる男性はいい方で、なかなか理解できない男性も少なくない。
ただ、私に言わせるなら、男女問わず、こういうのは「何か読んでて恥ずかしい」とか「虫酸が走る」なんて最初は思っていても、こういう世界に慣れてくると、むしろ、その気恥ずかしさが、かえって楽しめてくるものであると思う。例えは悪いが、ちょうどギンナンやクサヤやドリアンが、外側は臭くても中身はおいしいみたいに。そして、青春ドラマで例えるなら「夕日に向かって走ろう!」「おお!」と叫んで川の土手を走るラグビー部員が出てきたり、海に向かって「青春のバカヤロー!!」なんて叫ぶのを「お約束」として楽しめるのと同じように、少女小説や少女漫画も、だんだん「お約束」がわかってくるようになるものである。
こればっかりは好みの問題なので、どうしようもないけれども、少女漫画的なかわいい絵柄に抵抗を感じる男性も多い。 あの「お目目ぱっちりに小さな口の、お人形さんみたいな女の子」の絵を、あれは人間を描いた絵じゃない、デフォルメだなんて納得できないなんて主張する男性も。
男性は少女っぽい本を読むべきではない、という風潮のためか、そのような本を読むことが恥ずかしい男性は多い。または、家で姉妹に借りるのはあまり恥ずかしくないけど、本屋で少女漫画を買うのは恥ずかしかったり。
ただ普通に鑑賞していて、エッチな妄想を抱いているわけでも全然ないのに、変態だとかおたくだとか、最悪の場合「宮崎勤予備軍」とまで勝手にレッテルを貼られることもしばしばある。また、「そういうの読んでること自体、周りに迷惑かけてるんだよ!」とまで言われることもあり、このような作品に触れることを躊躇させる原因ともなっている。
一部の人に嘲笑される程度ならまだいいが、しつこい反対や、焚書などの迫害を恐れ、隠れ少女漫画ファンとなっている男性読者は多いのではなかろうか。
昔は「男女6歳にして席を同じうせず」と言われ、男の子と女の子も6歳を過ぎると一緒に遊んだりすることを許されませんでした。しかし今はどうですか。そんな言葉など聞いたこともない人がほとんどでしょう。
「男子厨房に入るべからず」という言葉は、知らない人の方が少ないかもしれません。昔は家庭の台所で料理をする男など、女っぽい軟弱者もいいところでした。しかし今はまるっきり違います。料理が本当にうまい男は、女の子にモテてしまうくらいです。(ただ、男物のエプロンは女物に比べてほとんど売ってないのがちょっと不満!)
昔は、男が子守をすることなど、男の
しかし、男が「女性向け」と呼ばれる作品を鑑賞するなど、男のこけんにかかわる、という考えは、まだしぶとく残っています。今こそ、この考えを取り除くべき時です!
今テレビのCMで鰐淵晴子さんの「ノンちゃん雲にのる」(昭和30年 東宝)の映 像が流されています。あどけなく、かわいらしい鰐淵さんの顔がまた見られるなんて 本当に幸せなことです。(筆者註・「テレビのCM」とは、積水ハウスのものだと思われる。確かにあのCMのノンちゃんは、いじらしくてかわいかったのを思い出す)
当時の少女雑誌の表紙はいつも鰐淵さんの写真で飾られておりましたが、その写真が欲しくても我々少年としては、少女雑誌なぞ恥ずかしくてとうてい買い求められず、ずっと満たされない思いでいたことでした。
そんな女神様のような鰐淵さんがとてもソソカシイ人だなんて世の中面白いものです。
赤ちゃんが生まれると、「男の子です」「女の子です」とわかるけれど、これはカラダそのものが違うからですね。
しかし、その子が大きくなって小学校に上がると、男の子は黒いランドセル、女の子は赤いランドセルを背負うことが多いものです。男の子が赤いランドセルとか女の子が黒いランドセルを背負えないとか、背負ったら病気になるなんてことは全然聞かないけれど、これは日本社会の暗黙の了解で決まっているようです。
前者の違いははっきり黒白分かれていて、XXの染色体を持っている人間は女、XYなら男。それに赤ちゃんを産んでお乳をあげられるのは女だけ。人間は男性か女性のどちらかに分類されます。
一方、後者は時代や場所や人によって非常に異なるものです。
半世紀前の日本では家で料理や洗濯や子守は女の仕事と決まっていました。ところが今ではどうでしょう。ダンチューだとか、たまひよパパとかいう言葉を時々耳にするし、男女どっちがやってもいい仕事に変わっていきました。
明治時代、医者は男だけの仕事と決まっていて、女はその「神聖な領域」を侵してはいけないとされていました。だけど勇敢な幾人かの女性医師の登場のおかげで、そのタブーは消え去りつつあります。
数十年前は、赤い服を着るのは女の子と決まっていました。しかし今では男の子だって真っ赤なTシャツをはじめ、色とりどりの服を着ているものです。
日本では男が婦人用自転車に乗っても何の違和感もないが、中国では男は絶対婦人用自転車に乗らないといいます。
結局、「男ならこうしなければいけない」「女ならこうしなければいけない」という社会の基準は、非常にあいまいなのです。
誤解のないように付け加えておきますが、私はウーマンリブとかメンズリブとかそういう考えを言おうとしているのではありません(極端なウーマンリブ運動等は、むしろ私は嫌いな方です)。
「男らしさ」「女らしさ」は適度に必要なもの、私はそれらすべてにたてつくことはないと思います。
しかし中には男尊女卑思想に基づいた明らかに間違った習慣もあったり、極端な部分もあったりするし、このような間違いはひとりひとりの小さな行動を通してなくしていくのが理想だと思うのです。
人間は男と女に分かれているが、だれもがメシを食ってフロ入って寝る。たとえ女が中心に台所仕事をしてる家でも、時々「男子が厨房に」入ったって良いじゃないか。だれだって笑ったり泣いたり怒ったりする。男がセンチになって泣いちゃいけないとか、女がはしゃいじゃいけないとか、それくらいで人格まで否定するなんて馬鹿げている。
男らしい性格・女らしい性格とは、あくまでも男の中の・女の中の平均値なのであり、強さだって優しさだって涙だって、男女に関わりなく十人十色の違ったアレンジがあるのだ。結局こういうことを言いたいのです。
コラム:「男の子にも読んでほしい」
これを見た時非常にびっくりしたのだが、昔、「週刊少年ジャンプ」に、このキャッチフレーズ付きで「マーガレット」の広告が載っていたのを思い出す。
少女漫画ってどんなものなのか、ちょっと読んでみたいと思う男の子も中にはいるだろう。
だけど、ちょっと読んでみる、たったこれだけのことなのに、その前には、大きな障害が待ちかまえている。
読んでいることがバレようものなら、友人との縁を切られることは、まず覚悟しなければならないし、家族との縁も一気に危うくなる。
また、クラス中や近所中に変な評判が立つのも覚悟しなければならないのは言うまでもない。
だけど少女漫画とは、我々にとって、このリスクを冒しても是非読みたい禁断の世界である。
ごく一般的に日常を送っていたらなかなか会うことのできない別の世界が、そこにはあるのだから。
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