学校における強制募金の実態


 交通安全協会の会費やNHK受信料や国民年金に疑問を抱いて払わないという人が、共同募金の金を子供に持たせることに無頓着なのは、どうしてだろう。

 「日の丸」「君が代」の押しつけに絶対反対の親が、募金の押しつけには疑問を抱かないのは、どうしてだろう。

 これは「事実上の押し売り」、いや押し売りと言い切ってもよいだろうに。

 交通安全協会の会費やNHK受信料や国民年金より安ければ、たかが数十円の端金(はしたがね)なら、すべては許されるのだろうか。

 “戦争の旗印”でなく慈善事業の押しつけなら、愛と平和のためなら、すべては許されるのだろうか。

 答えは否、である。

 通りすがりの人々すべてに赤い羽根を配布していき、受け取った人から「最低でも20円以上」の募金を強制的に徴収する、そんな共同募金が果たしてあるだろうか。

 いや、そんなものは存在しない。公共の場所では、共同募金に募金するよう請願することはあっても、押し売りまですることはない。

 しかし、小学校や中学校など、学校の校舎の中では、共同募金は「赤い羽根の押し売り」と化しているのが現状である。


「赤い羽根」押し売りの実態

 私の在籍していた千葉県の小・中学校では、赤い羽根は「希望者に配布」ではなく「全員に強制配布」だった。また、母の日の前に、「おかあさんありがとう」と書かれた短冊の付いた、造花のカーネーションも毎年強制配布され、それに対する募金も求められた。

 募金は児童・生徒が手で募金箱に入れるのが普通だったが、時には集金袋で教材費と一緒に請求されたこともあったのを、はっきりと覚えている。集金袋までひどくなくても、誰が募金したか、誰がまだ募金してないかを、名簿に記録しておくのは日常的な光景だった。

 私は小・中学時代、赤い羽根もカーネーションの造花も「一個20円」だとずっと思いこんでいた。毎年いつも先生が「一人20円以上募金すること」と言っていたからである。募金の最低金額が決まっていないことや、本来は強制配布するものでないことを知ったのは、ずっと後のことだった。

 その他にも、広島・長崎の原爆被害者支援の「平和の鐘」鉛筆の販売が毎年あった し、障害者の子供がタイプライターでカラフルに描いた絵(今で言うアスキーアートみたいなの)の絵はがきの販売もあったが、そちらは注文を取って希望者だけに販売するもので、まだ良心的な方だった。もっとも、「平和の鐘」鉛筆は、クラスのほとんど全員が買っていたから、唯一買わない私は肩身の狭い思いをしていた。

 というのも、我が家は強制募金はいっさい拒否の方針だった。私も寄付をノルマにするのは間違っていると思っていたし、その方針にとりあえず同意して払わなかった。

 しかし、クラスの全員と全く違った行動をするということが、子供にとってどんなに勇気の要ることだったか。カーネーションの造花や赤い羽根を、「先生に怒られたらどうしよう、どうしよう」とビクビクしながら返しに行ったりとか、もらっておいて金は払わないとか、根性なしで情けないけど、後でこっそり返したりとかしていた。

 しかも、それは「善意の寄付」で、それを断るのはあたかも守銭奴の悪人であると でもするような雰囲気の中での行動である。当時は、やっぱりみんなと同じで払いたいと何度思ったことやら、何度親を恨んだことやら。

 でも今一度思い返してみると、当時その強制募金を拒否したことは正しかった、と確信しているし、むしろその実態を思い返すたびに、怒りがこみ上げてくる。


何が問題なのか

 問題の一つは、募金団体は「任意」と(建前では)言ってるのに、学校側が勝手にノルマを決めるのが通例であることだ。学校によっては、一クラスいくらとノルマが決められていて、そのノルマに達しないと生徒に対し「もっと募金するよう」請願する。私の学生時代も何度か経験した。

 次に、収入のない小・中学生に募金させることの問題である。本来、募金とは自分で働いて稼いだ金を募金させるべきであるが、学校の募金は、子供を利用して親に金を払わせているのである。

 親に金を払わせるといっても、PTA会場やバザーという機会を利用して大人に直接払わせるというのなら、まだ話はわかる。しかし、子供から間接的に、ひどい時には毎月の集金に含めて払わせるのだ。

 大人が直接払うのなら、募金に賛同するしないの自由意志は働かせやすい。しかし、子供を使って徴収するというのは、はっきり言おう、子供の世間体という弱みにつけ込んで金を奪う強盗である。動機が良ければ、額が少なければ許されるという問題ではない。学舎(まなびや)を強盗の巣となさんとする強制募金の実態に、私は憤りを感じる。(聖書のマタイ傳二十一ノ十三を参照)

 片親家庭で貧しくて、毎月の集金や給食費の払えない子供が、どんなに肩身の狭い思いをしているのか、親がお金を払わない・払えないことで、子供がからかわれたりして傷つくことがあるのは、仮にも片親家庭を支援する団体なら知ってるはずだろう。

 私はそのような募金活動に疑問だし、私は払いたくない。でも、自分の子供ひとりだけ、クラスで払わないとなったら、子供の心を傷つけてしまうのではないかしら。うちの子供にはそんな思いをさせてあげたくない。子供にはせめていくらいくら持たせてあげよう。多くの親はたとえ募金活動に疑問を持っていたとしても、そう思って、子供に募金のお金を持たせるのである。

 果たして、この強制募金の実態を、募金団体は知っているのだろうか。「知らない」あるいは「一部にあると聞くが、それは本来の意図ではない。あくまでも生徒の自発的意志に任せて欲しい」と言うだろうが、それはあくまでも建前で、本当は知ってて見て見ぬ振りをしてるに違いない。そう勘ぐってしまうのは私だけだろうか。

 また、「母の日」の造花カーネーションは、本当の父子家庭を傷つけるものではないだろうか。

 私が小学生の頃、本当の父子家庭の女の子がクラスにいた。その子は「おかあさんありがとう」と書かれたカーネーションを付けるのは嫌そうな顔をしていた。「おかあさん」の文字を消して「おとうさんありがとう」にして、胸に付けていた。そのことを今でも覚えている。

 でもその子の父親も、20円以上のノルマを愛する娘に持たせたのだろう。募金団体というものは、片親家庭の支援のための金を得るために、カーネーションの造花を押し売りしてまで、片親家庭の子の心を傷つけたいのだろうか。私はかわいそうでならなかった。子供心にも、その子の複雑な心境を察したのだった。

 最後に、金をバラまくだけの慈善事業は、彼らの自立をかえって遅らせていることにも注意を喚起したい。どうして、毎年毎年、飢餓難民のための募金を集めて援助しても、飢餓が一向に収まらないのだろう。確かに、食糧援助は目に見えてすぐに効果がある。しかし、慈善事業とは先進国の金にすがる乞食を生み出すためのものではなく、最終的には彼らの自立を目指すべきであることを忘れてはならない。
 ただ、この根本的な解決策というのも一筋縄に解決しそうな問題ではない。例えば政府が民衆の食糧より武器調達を優先していたり、役人の不正によって税金や援助食糧が無駄遣いされていたり、内戦で農地が荒れたり農民が死んだり、先進国の不公正な経済慣行によって農業や経済に打撃を受けていたりといった部分は、政治的思惑などもあって解決が難しい。本来は、こういう問題を先に片づけない限り、いくら食糧援助しても焼け石に水なのだ。


ノルマは決まっている

[歳末助け合い募金のご協力依頼]

 これは学校ではなく町内会の話だが、以前に町内の回覧板で回ってきたもの。募金のノルマは決まっている。


参考資料

(以下は私の管轄ではありません。あくまでも参考資料にどうぞ。)

「中学生の街頭募金に再考」 - 募金熱を煽る教員に募金の意味を知らされない生徒、集まった募金の使途は不明というあきれた実態。
町内会長日誌 - 5月4日(日)を参照。赤十字の募金にはノルマがあるようだ。
文句たらたら日記 - 町内会の赤十字の募金に関する一言。
第6回 社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会 議事概要 - 厚生労働省のサイトより。
独り言 - ページの一番下の方に、共同募金のノルマに関する一言。
平成12年度 国民生活白書 ボランティアが深める好縁(要旨) - 経済企画庁の報告より。(要Acrobat Reader)


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