よく聞かれる質問


旧仮名遣いは発音と一致していないので覚えづらいのではありませんか。

 「旧仮名遣い」を覚えるなど、中学生レベルの英単語を覚えるよりも、もっとずっと楽なことです。しかも母国語なのですから余計覚えやすいのです。

 確かに、「旧仮名遣い」は発音と一致していないのですが、それを言うなら新仮名遣いもそうです。 例えば「ジ」「ズ」は言葉によって「じ・ぢ」「ず・づ」の両方の表記があります(これは、むしろ新仮名遣いの方が規則が複雑です)。 「は」「へ」「を」は助詞に限ってはワ行の発音(ワ・エ・オ)になります。
 それにもかかわらず、私たちは何の苦もなく両方の使い分けをきちんとしています。 よく覚えられるね、なんて言うのが野暮なもので、こんなのは慣れの問題です。

 日本語以外の言語でも、文字と発音を完全に一対一対応している言語というのは、あまりありません。 人工文字のハングルでさえ朝鮮語の発音との完全な一対一対応ではなく、同じ子音文字のパーツに対応した発音が、パッチムとして使われるか、次にどの音が来るか等によって変わることがあります。 また、英語は文字と発音の対応に一番例外の多い言語ではないかと思います。Wednesdayがなぜウェドネスデイではなくウェンズデイになるのか疑問に思いながら綴りを覚えた経験のある人は多いでしょう。 同じイーの発音でもeeと綴ることもあれば、言葉によってはeaと綴り、thankとthisのthや、throughとlaughのghは同じ文字でも発音が違います。
 しかしそれでも幾つかの法則はあるのを、英語を学んだことのある方なら知らず知らずのうちに体で覚えているはずです。eaやeeはイーと発音する、riceのeはeggのeと違って語尾にあるので無音になる、など。
 歴史的かなづかひはこれに似ています。「せ」は「せ」、「う」は「う」と発音しますが、二つが合わさって「せう」となると「しょー」と発音します。このように複数の文字の組合せが、ある音に対応している場合があります。また、「はと」の「は」は頭にあるので「はと」と発音しますが、「かはせみ」の「は」は二文字目以降なので「かわせみ」と発音します。このように文字の位置によっても音が変わる場合もあります。このような規則がちゃんとあって、しかも英語に比べれば例外も少なくてもっと簡単なくらいです。

 ところで、なぜ一つの文字と発音が一対一対応しないのかというと、皆さんご存じのように、時代によって発音が変わってくるからです。
 しかし、それが唯一の理由ではありません。 同じ単語でも人によって発音の揺れのある語もあるため(日本語では「い(言)う」を「イウ」と「ユウ」、英語ではoftenをオフンとオフトゥンなど)、文字と発音が一致しない場合があります。
 また、英語のseeとsea、writeとrightのように、同音異義語は多いものですが、それらすべてを同じ綴りにすると、かえって読みにくくなります。 同じ発音でも単語の違いによって綴りが異なっているというのは、覚えにくくする障害どころか、単語の区別をわかりやすくする利点もあります。


 そもそも、人間はどのようにして文字を読むのでしょうか。
 言葉を学びたての人は、一文字づつ「ア」「サ」「ヒ」「ハ」「ア」「カ」「イ」と読み、なるほど「朝日は赤い」と言っているのだな、と解ります。  しかし、読解に習熟した人は、文節毎に「朝日は」「赤い」と読み、瞬間に「朝日」のイメージと「赤い」イメージが脳裏に浮かびます。つまり、頭の中では無意識にこの文節の区切り作業をし、各文節をパターンとして認識しています。これが人間が文章をスムーズに読める秘密なのです。
 これは言葉を読むことに限らず、文字をタイプすることやピアノを弾くことなど、皆そうですね。例えば、PCのキーボードはABC順でも五十音順でもないので、使いたての頃は非常に使いづらいものです。ABCがどこなのかを探すだけで一苦労です。しかし、使い慣れてくるとどうでしょう。「わたしは」と打とうと思うと、手が勝手に動いてしまうものです。「わたしは」というような、よく使う文節は、文節毎に指の動きのパターンとして記憶してしまっているのです。
 従って、歴史的かなづかひも覚えづらいのは最初だけ。読み慣れてくれば、脳内では文節毎にパターン認識されて、すらすら読めるようになってくるでしょう。

 結論として、
・歴史的かなづかひは欧米言語のように文字の組合せ、および文字の位置で発音が決まります。
・人間は言葉を一文字一文字でなく文節毎に読むことは、それは現代かなづかいも歴史的かなづかひも変わりありません。つまり読むことに慣れて文節毎のパターン辞書を頭の中に作っておけば、どちらも慣れてすらすら読めるものです。
・習熟してくると、現代かなづかいよりも単語の語源をより推測しやすいため、既に知っている単語と関連づけて覚えやすくなる、という長所が出てきます。
 したがって、歴史的かなづかひは現代かなづかいより劣っているとは必ずしも言えない。私はこう考えます。


旧仮名遣いは古代の発音に基づくものなので、現代の発音に基づかない仮名遣いは間違っていると思います。

発音を正確に書き写す「発音記号」ではなく、語に基づいて綴りを決め、発音は時代により流動的に変わるというのが日本語の伝統的な綴字法だったのです。それは欧米言語も同じです。

 鎌倉時代ともなると、既に仮名遣いが「発音通り」のものではなくなっていました。また、仮名遣いにも幾通りかあって混乱していたので、藤原定家は仮名遣いをまとめて一定の基準を定めました。しかしその時、定家は「仮名と発音の違い」を直すことはしませんでした。古典では元々どのように書かれていたのかを基準にして仮名遣いを定めました。そして、何百年もの間で発音は変わりましたが、仮名遣いはあまり変わらず一定のものが使われてきました。
 つまり、仮名遣いを現在の発音に合わせていちいち変えるのでなく、仮名遣いだけ固定しておき、発音は流動的に変わるというのが、昔からの日本語の常識だったのです。

 この方式は「発音と文字が一対一対応でないので覚えにくい」と思う人もいるかもしれませんが、前項で述べたように長所もあります。そもそも、「文字は必ず発音と一対一対応させねばならない」という前提が本当に正しいのか疑うべきかもしれません。世界的に見ると、現に欧米言語をはじめ、その前提に基づかない言語ばかりなのですから。


旧字体や旧仮名遣いは右翼っぽいので大嫌いです。

それは俗説です。大概の右翼はかえって「旧字旧仮名嫌い」か「関心ない」ものです。

 実を言うと、私も右翼=旧字体愛好家だとばっかり思いこんでいました。 しかし、それは全くの誤解だったことに後で気付きました。
 まず、右翼のポスターを見ても街宣車を見ても、みーんな新字新仮名遣いばっかりで、もし正字体を使っていてもそれは申し訳程度に団体名の「国」の字が「國」になっているくらい、というケースがほとんどなのです。
 それに、国語問題に本腰を入れている右翼団体など、私の知っている限り、全く見かけたことがありません。 「日教組粉砕」や「自主憲法制定」や「北方領土返還」に加えて「国語正統表記(=正字正仮名)の復活」を理念に掲げた右翼団体など、これまで一度も見たことがありません。
 右翼個人個人で言うならば、聞いたところによると、どうやら人によってそれぞれ意見が違うようです。確かに「旧字体愛好家」もいるようですが少数派で、大多数は関心ないらしいし、むしろ「旧字体愛好家」をけなす人さえいると聞いたことがあります。
 それで、右翼=旧字体ばっかり使っている、というのは、私は迷信だと思います。

(そもそも皆さんのイメージしている、いわゆる右翼というものは、全てがそうでないにしろ、ほとんどが政治団体の皮をかぶった単なるゴロツキ、暴力団だというのが私の考えです。大体、金さえ包んでやれば“企業の悪を暴く”街宣車を引っ込めるなんて、本当に正義を愛しているのでしょうか。“教育勅語”の精神をと口では言っていながら、その教育勅語にある「恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ(慎み深く行動し、皆に博愛の精神を示し)」や「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ(いつも憲法を重んじ法律に従い)」の精神とかけ離れた行動を取っているのは、どういうことなのでしょう。)

 他にもよくある誤解に、「旧字・旧仮名遣いは封建主義の象徴」というものがあります。 しかし、ドイツ語学習をヒトラーと結びつける人も、英語学習を英米の植民地主義と結びつける人も、中国語学習を天安門事件と結びつける人も、まずいません。 むしろ、「国際的な友好に役立つ」といって学んでいる人の方がずっと多いものです。 福田恆存氏の言葉を借りるなら、「旧字・旧仮名遣い」と封建主義を結びつけるのは、平和を訴える人々を全てアカと決め付けるのに似た発想だと私は思います。

 また、言語や文字や表記はあくまでも道具であり、使う人それぞれの使い方によって良くも悪くも使えるものです。
 「旧字・旧仮名」を用いて封建主義的発想を表現した人もいましたが、同じこの道具を用いて、平和や平等や反戦平和、民主主義、社会主義などさまざまな主張が生まれました。
 一茶や芭蕉の俳句、夏目漱石の「坊ちゃん」、樋口一葉の「たけくらべ」のように現代でも愛好されている文学作品は、元々歴史的仮名遣いで書かれました。
 正字正仮名は男性的で堅苦しいどころか、例えば吉屋信子の「花物語」は少女の夢や感傷や繊細な感情さえ描き出しました。
 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」や小林多喜二の「蟹工船」のように現在「反戦的作品」「プロレタリア文学」と言われている文学作品も正字正仮名で書かれました。
 また「平和憲法」と皆がほめたたえる現在の日本国憲法も、正字正仮名(旧字旧仮名)の口語体で書かれました。

 俳句や短歌を正仮名遣いで詠む人は多いものですが、これは右翼的だったり封建主義的な発想が好きだからではなく、純粋に言葉の美しさに惹かれて使っているのです。 そして私もその多くの歴史的仮名遣い愛好家の一人です。


パソコンに頼らなければ手で書けもしない難しい漢字を使うなんて、どうかしてると思います。

明朝体活字と筆写体は違います。アルファベットのaも活字体通りに書くのは面倒だしそう書かないでしょう、それと同じです。

 なるほど、この画数の多い伝統的な漢字の問題は、昔から問題とされている事柄です。

 私自身に限って言うなら、私は正字体は手で書いて覚えています。 覚え方も、新字体との関連にある程度法則性がありますし、字によっては「鐵=金の王なる哉」と分解して覚える方法もあります。
 私はかつて中国語を学んでいたので、伝統的中国語の字体(台湾で使われている繁体字)に興味があり、テキストの簡体字と平行して、独学で、対応する正字体を覚えたのですが、この字体は戦前日本で使われていた字体と同じものです。 それで、この経験は後に戦前の古い文献などを読むのに大いに助けになりました。

 しかし、戦前も日常生活では略字体が幅広く使われていたのは事実です。 本など活字では正字体ばかりですが、手書き文字やポスター、看板、ネオンサイン等は、筆記の手間を省いたり、多い画数でゴチャゴチャ線が入り組んだデザインにならないように、略字体もよく使われていました。 例えば映画の「画」(正字体は「畫」)、地下鉄の「鉄」(正字体は「鐵」)、金額単位の「円」(正字体は「圓」)などです。
 今でさえ「第」や「曜」の字や門がまえなどを手で書く時には略字体がよく使われます。一方、それらの漢字は、活字では省略しない漢字が使われます。これは戦前も戦後も同じ話です。

 また、明朝体の活字だけの「旧字体」というものも結構あります。例えば「曾」という字は、筆写体では戦前も今と同じく「曽」と書くのが普通でした。しんにょうも活字体は点が二つですが、筆写体は昔から一つでよいのです。しめすへんは「示」で書くこともあったものの、筆写体なら「ネ」で十分です。
 つまり、明朝体は装飾的な字体であり、筆写体とは異なります。今でも漢字の「令」の字を活字体通りに書く人や、ひらがなの「き」「さ」を活字体通りに縦棒と丸い部分を続けて書く人はほとんどいませんが、同じことです。

 この点、略字体は便利なものだと私も思います。 ですから現に私も正字正仮名で文章を書く時、特に手で書く場合は「体」や「画」のような略字体を多用していますし、それは昔の日本人に倣っています。
 しかし、筆記体と活字体は、必ずしも同一ではありません。 便宜上省略して書くこともあれど(現代はその方が断然多いが)、もともとの字体は正字体が基準。 私はそう考えています。


歴史的仮名遣いや古典は難しいし日常生活に役立たないので、普通教育には不要です。あんなのは専門家に任せておけば良いのです。

この態度こそ、教育の格差を余計に作り出すものです。

 もっとも、この意見の背後にある動機は「日本人に、子供たちに、負担をかけたくない」という良い動機でしょう。悪気はないはずです。

 しかし、難しい事柄を簡略化することは、いつの場合でも、長い目で見て本当に役に立つのでしょうか。時には「小さな親切、大きな御世話」となりかねないのではないでしょうか。例えば今の小・中学校では「ゆとり教育」と称して、三桁以上の掛け算は筆算でなく電卓を使うことになっています。実際に我々も日常生活では筆算よりも電卓を使うことが多いのですが、これで良いのでしょうか。

 「学問に王道なし」と言いますが、最初にちょっと我慢して難しい事柄をしっかりマスターしておけば、後に応用的な事柄を学ぶのが途端に楽になります。逆に、最初を手抜きすると、後の応用でつまづきます。

 簡単な例で言うなら、最近の小学生には、掛け算九九のできぬ者が昔より多いとのこと。なるほど、3×4の掛け算なんて、掛け算九九を知らなくても3を四回足せば良いのですから、知らなくたって良いとも考えられます。しかしそういう子は、高学年になって割合の計算などが出てくると、もうお手上げです。「そういうのは電卓を使えばいいし、そういう仕事をする人だけが覚えれば良い」とは、そういう落ちこぼれ小学生たちからよく聞く文句です。

 歴史的かなづかひも同じで、あのように一部発音と一致しない部分のある綴り方は、わざと意地悪をしているのではないのです。最初のうちは現代仮名遣いより覚えにくいのは事実です。しかし、歴史的かなづかひの方が、日本語のシステムとしての完成度は高いし、もっと本腰を入れてきちんとマスターすれば、文法を学ぶにしろ、語源と関連付けながら新しい語を学ぶにしろ、応用はむしろ楽になると思います。今の学校教育では、古典学習の根幹を成すと言っても過言ではないはずの歴史的かなづかひ習得が、本当に中途半端で終わってしまっているのが残念であり、基礎が不完全な生徒に紫式部や清少納言の気持ちが完全に理解できるわけがありません。むしろそれが「古典は難しい」と感じさせる原因となってしまっています。

 本来は日常生活の日本語も歴史的かなづかひに準拠したもので教えるのが理想ではあります。まあ、それが無理ではあっても、歴史的かなづかひの綴り方くらい、古典学習の前段階として徹底的に教えるべきです。それは基礎です。その基礎があってこそ、平安時代のような古典から現代まで連綿と続く日本文学の世界を楽しめるというものです。

 ところで、中には「漢字は時の政府が、文字の学習をわざと困難にして、庶民を無学のままにさせる方策だった」などと言いながら、「古典の学習は難しいのだから、専門家だけに任せれば良い」と言う矛盾を犯している人を見かけることがありますが、どうでしょうか。後者の考えこそ、教育の格差を余計に作り出すものではないか、と私は思います。

(また前者の考えに反論するなら、漢字とは中国でも日本でも、方言の差違を吸収する手段でした。欧州でラテン語の果たした役割に近いかもしれません。しかも、同じ外来語をカタカナで音訳するのと、漢語に訳すのでは意味が違います。カタカナ語だらけの文を理解するには、原語の綴りに関する知識がどうしても必要になってきます(英語に弱い人が一般的に横文字に弱いのはそのためです)。一方漢字は文字一つ一つが意味を持っている上に、漢語にも母国語の大和言葉にも使われますから、新しい語に出会った時でも大抵は意味を類推しやすい上に、習得もカタカナ語ほど困難ではありません。この漢訳された外来語と、かつての武士と平民が席を同じうしたより平等的な学校教育制度こそ、明治文明開化以降、欧米の学問を日本庶民が貪欲に受け入れることのできた理由だと思われます。やはり、漢字は日本語にとって無くてはならないものと言えましょう。)


文語体は難しいので覚える気がしません。

旧仮名は文語体向きの仮名遣いです。口語文に旧仮名では、まるで“古い革袋に新しい葡萄酒”のようです。

「旧字」「旧仮名」「文語体」、3つの違いをご存じですか。夏目漱石の「坊っちゃん」は「旧字旧仮名」だけど、文語体でなく口語体でしたよ。

 文語体は、覚える気がしなければ、無理に覚えることもありません。
 私も口語体に比べて文語体は(好きではあるが)苦手な方です。
 しかし口語体の歴史的かなづかひなら、古典のような文語体の歴史的かなづかひより断然読みやすいもの、私はこれを中心に読んでます。
 いずれは文語体も口語体並に読んだり書いたりできるようになりたいものですが、特に書くのは(慣れてないせいで)難しいとつくづく感じています。
(……と書いたのは高々二、三年前のことですが、つい最近になって、昔よりも文語文がすらすら読める自分に気付きました。口語文であっても、歴史的かなづかひを読む勘を取り戻してくると、今度は文語文も読みやすくなってきます。とにかく最初は口語文から挑戦してみることをお勧めします。)

 あるいは、学校で習う古典の授業のせいで歴史的かなづかひが嫌いになってしまった、と言いたいのでしょうか。
 実は私も古典の授業はあまり好きではありませんでした。仮名遣いは自信がありましたが、言葉が難しくて難しくて。
 古典というと、なぜ決まって平安文学ばかりやるのでしょう。平安文学には優れたものも確かに多いけれど、現行の国語教育は、あまりにも平安文学を偏重し過ぎではないでしょうか。「奥の細道」みたいな江戸文学だって古典です。
 また、戦後教育の世代は文語文に慣れていないのも問題です。その点、文語文を知る上では明治〜昭和の文語文は現代の語彙とあまり変わらないので、文語文に慣れるための初歩に良いと思います。
 まずは明治時代〜古くても江戸時代の文学を鑑賞したり、俳句や短歌といった短く親しみやすいものの鑑賞や実際の詩作を通して、文語文と歴史的かなづかひに十分慣れ親しんだ上で、古代の語彙も多い平安文学に挑戦する、私がカリキュラムを自由に決められるのなら、この順番にします。
 「古典は歴史的かなづかひになかなか慣れなくて読めない、使ってる言葉も難しくて理解できない、文章も長くて途中でわからなくなる」では、理解できなくて興味をなくすだけです。学校の古典の授業は、どうも根本的な部分に欠陥があるように私は思います。

 それから、「口語文に旧仮名を使うな」という文句は、明治〜昭和の歴史的かなづかひによる口語文を鑑賞してから言って欲しいものです。漱石や藤村などを教科書(元々は口語の歴史的かなづかひだったのに、教科書では現代かなづかいに直されてしまっている)でしか読んだことのない人は、古本屋に行けば新潮社から出ている歴史的かなづかひ版を一冊百円くらいでよく見かけますから、どうせ安いし読めなくて元々と思って、買って読んでみてください。たとえ最初は読み慣れないとしても、「なるほど!やっぱり明治文学は歴史的かなづかひでなくては雰囲気が出ない!」と思うこと請け合いです。

 中には、「明治の文豪が旧仮名の口語文で書くのは、昔のことだから構わないけど、今の二十一世紀の人間が旧仮名を使うなんて古臭い」と言う人もいますが、これはあくまでも主観的な意見、自分の好みの問題でしょう。「標準語が日本語の標準なのだから、いつでもそれに合わせろ」とか「大阪弁はガラが悪い」と陰口を言われようが、大阪弁の真の美しさを知っている人は大阪弁を使い続けるでしょう。同じように、「現代仮名遣いが日本語の標準なのだから、いつでもそれに合わせろ」とか「旧仮名は古臭い」と言われようが、歴史的かなづかひの真の美しさを知っている人は歴史的かなづかひを使い続けるでしょう。

 そもそも、「文語文は歴史的かなづかひ、口語文は現代かなづかい」というのは、いわば昭和版「ゆとり教育」の方針に過ぎません。本来、伝統的には、文語文・口語文どちらも歴史的かなづかひだったのですが、「円周率は約3」と同じような簡素化が口語文のみに適用されてしまったようなものです。

参考:文語体とは何ぞや?(例文を挙げてみました)
 口語体の現代表記「これはだれでしょうか」
 口語体の歴史的かなづかひ「これは誰でせうか」
 文語体の歴史的かなづかひ「こは誰(たれ)ぞ」


日本を変えて日本語を旧字旧仮名に戻すことが、あなたの考えですか。

政治運動は考えてません。ただ学術的に、正字正仮名文の魅力や歴史などを紹介しているだけです。

 いいえ。大体、戦後の国語改革を元に戻すことなど、今の日本では、まず無理でしょう。
 私の目標は改革というよりもむしろ、日本語の歴史(特に近・現代)を記録することと、ともすると邪魔者、日陰者扱いされがちな正字正仮名に関する理解を深めることです。
 「戦前の日本語は欧米言語に十分劣っていたし、戦後も漢字がある限り欧米言語に負ける」、などとは私は考えません。欧米コンプレックスにとらわれて日本語を極端なまでに卑下するのは考えものです。昔も今も日本語には日本語の良いところがあるし、ともすると日陰者扱いの歴史的かなづかひや文語文だって、見方を変えれば良いところもある。そう考えてこのページを作っているだけです。

 しかしまあ「古くさい」だの「そんな書き方してるの、ジジイだけ」だの「戦時中とか右翼を彷彿させる」だの、否定的イメージの多いこと多いこと。「そうじゃないんだ!」と声を大にして言いたいです。


あなたがいくら旧字旧仮名の正統性を力説したところで、旧字旧仮名など現代では使われていないのです。「正」字「正」かな、なんて間違っています。旧字旧仮名で十分です。

「旧字旧仮名」は今でも生きています。「現代仮名遣い」に関する内閣告示も、文語文、芸術分野や私的な文章にまでは要求されていません。

 まず、仮名遣いについて言うなら、歴史的かなづかひは現代でも生きています。新聞でさえ、文語体の詩、俳句、短歌を載せる時は歴史的かなづかひのままです。「現代仮名遣い」に関する内閣告示も、そこまで現代仮名遣いにせよとは命じていません。
 いわゆる旧字体についても、人名や会社名など固有名詞の表記には現代でも一部生きています。

 “「旧字旧仮名」みたいな古いのがお好きなら、万葉仮名でも使ってな”、と揶揄する人は多いですが、いわゆる「旧字旧仮名」は万葉仮名と違い、完全に絶滅したわけではないのです。日常生活の全面にわたって使われることはなくなったものの、(まるでアメリカ原住民が今では狭い保護区域に追いやられたように)、文語文や固有名詞などといった限られた領域に追いやられてしまいながらも、今でも細々と生き永らえているのです。

(万葉仮名は絶滅したと書きましたが、暴走族によって今でも生きているという反論が来るかもしれませんね。夜露死苦など…… ただ、本論とは関係ないので割愛します)

 既成事実があるから物事が正しいのだと主張するのは屁理屈、知的な怠惰と言う以外何と言えましょう。そんなに既成事実が好きであるなら、“戦後のどさくさに紛れてソ連に取られてしまった”北方領土など、「既成事実のまま」ロシア領のままでよいのです。そう思っている日本人はほとんどいないと思うのですが、それはなぜでしょう。「このままではよくない」と思っているからに他なりません。
 それと同じく、「旧字旧仮名は今ではほとんど使われなくなったから」という既成事実だけで現代表記の正統性を論証するのも、説得力に欠けるように思います。「旧字旧仮名は名前の通り旧臭い、現代的ではないから使うべきでない、絶滅すべきだ」という「既成事実」は「このままではよくない」と私は思っています。

 もっとも、私は正字正仮名が日本語の正統表記だとは思うものの、戦後教育を受けた世代がほとんどを占める現代において、見境無く使えとは言いません。正字正仮名になじんでいない人が多いという「既成事実」がある以上、「場をわきまえて」使うことも必要かと思います。
(「ホームページは公に公開されているものだから、その『場』などではない。みんなにわかりやすく、必ず現代表記を使うべきだ」という反論が出そうですが、私はそうは思いません。芸術的、文学的に考えて正字や正かなづかひがふさわしい場合もあるし、誰かが個人のページを正字や正かなづかひで書こうと、個人の自由ではないでしょうか。それに比べて、日本人なのに英語でホームページを作っていたり、ホームページのメニュー表記にわかりにくい「しゃれた」英語を使ってたりしても、わざわざ突っかかってくる人は少ないのは、不思議なものです。西洋かぶれめ。)

参考:昭和六十一年七月一日公布の内閣告示より一部引用

現代仮名遣い

前書き

1 この仮名遣いは,語を現代語の音韻に従って書き表すことを原則とし,一方,表記の慣習を尊重して一定の特例を設けるものである。
2 この仮名遣いは,法令,公用文書,新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活において,現代の国語を書き表すための仮名遣いのよりどころを示すものである。
3 この仮名遣いは,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
4 この仮名遣いは,主として現代文のうち口語体のものに適用する。原文の仮名遣いによる必要のあるもの,固有名詞などでこれによりがたいものは除く。
5 この仮名遣いは,擬声・擬態的描写や嘆声,特殊な方言音,外来語・外来音などの書き表し方を対象とするものではない。
6 この仮名遣いは,「ホオ・ホホ(頬)」「テキカク・テッカク(的確)」のような発音にゆれのある語について,その発音をどちらかに決めようとするものではない。
7 この仮名遣いは,点字,ローマ字などを用いて国語を書き表す場合のきまりとは必ずしも対応するものではない。
8 歴史的仮名遣いは,明治以降,「現代かなづかい」(昭和21年内閣告示第33号)の行われる以前には,社会一般の基準として行われていたものであり,今日においても,歴史的仮名遣いで書かれた文献などを読む機会は多い。歴史的仮名遣いが,我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして,尊重されるべきことは言うまでもない。また,この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり,この仮名遣いの理解を深める上で,歴史的仮名遣いを知ることは有用である。付表において,この仮名遣いと歴史的仮名遣いとの対照を示すのはそのためである。


そんな古くてジジ臭いことばかり言ってるなんて時代遅れですよ。

古い事柄でも、そこから良いものは取り入れていくべきではありませんか。

 温故知新という言葉を知っていますか。昔のものは古くさくて悪いものばかり、と言って馬鹿にするのではなく、そこから得られる良いものはどんどん取り入れていくべきではないでしょうか。
 確かに「旧字旧仮名」は全く欠点のない完璧なものではないかもしれませんが、欠点は改めていくべき材料とし、良い部分は現代でも取り入れていくべきではないかと思うのですが。


そんなに古い仮名遣いが好きなら、万葉仮名でも使ってなさい。

旧字旧仮名を弁護しているなら、ホームページを全部旧字旧仮名で書かないのはなぜですか。矛盾しています。

あなたは日常生活で旧かななんか使ってるんですか。それは他の人に迷惑じゃありませんか。

最近の若いモンは、あなたのように正字正仮名文を「読もうという努力をハナから放棄する」人ばかりなので、どれも実現は困難です。

 正字・正かなづかひは、たかだか半世紀前の祖父・祖母の世代の日常的日本語で、今でも文語体など一部で生きているはずなのに、残念ながら日常生活ではほとんど使えません。使える場所は限られています。
 同じ正字・正かなづかひ文でも、ルビを振ったり難解な語句を避けるなどいくら工夫したところで、一目見ただけで読もうという努力をハナから放棄し、「読みにくいの何とかしろ」「ガラが悪そうに見える」「知識をひけらかしてるのか」とか言ってくる人ばかりですから。
 せいぜい、個人的なメモと、ホームページの一部だけです。
 まあ、関西弁でホームページ作ってる人がいるのと同じように、正字正仮名でホームページ作っている人がいたっていいじゃありませんか。


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