「戦前は右横書き、戦後は左横書き」これ本当?


 戦前の本で横書きのものは、みんな右→左の方向なのでしょうか?
 そんなことはありません。 数学の教科書、音楽の教科書、英語の教科書など、また技術書など、どうしても左横書き(左→右)のほうが合理的な場合は左横書きもよく用いられました。
 嘘だと思われる方が多いでしょう。 論より証拠、以下に証拠写真を載せましたのでご自分の目でご確認ください。

大正十五年 算術(算数)の教科書(教師用)  1 2 3
昭和七年 音楽の教科書  1 2 3 4 5 6 (「春の小川」と「牧場の朝」にしたのは、両者とも著作権が切れているため)

おまけ:「牧場の朝」のMIDIファイル(makiba.mid)

大正十四年 英語の教科書  1 2
昭和十八年 技術書(最新應用機構學)  1 (図中だけ、「断面」の「断」の字が略字体であるのにも注目))

 実は、右横書きというのは縦書きの一種だという説もあります。 一列に一文字だけ書く縦書きなのです。
 戦前の文献を研究するなら、全体的に縦書きになっている本や雑誌は横書き部分が右横書き、全体的に横書きになっている本や雑誌は左横書きです。 全頁にわたって左横書きの本は戦前でもたくさんありましたが、逆に全頁にわたって右横書きの本など一冊も見たことがありません。 そんなことをするくらいなら縦書きにするほうがまだ合理的です。

 結論として、最初から横書きでいいと割り切っている場合は左横書き、縦書きの本の中の一部に横書きを混ぜたり、横長の空間しかない看板に文字を書いたりなどと、本来は縦書きだが便宜上どうしても横書きが必要な部分のみに使用するのが右横書きなのです。

おまけの資料

佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」 第三章より

……英語の先生とはいうものの、この朝井先生は猛烈な国粋主義者であった、ある日生徒は英語の和訳を左から右へ横に書いた。それを見て先生は烈火のごとくおこった。
「きみらは夷狄のまねをするか、日本の文字が右から左へ書くことは昔からの国風である、日本人が米の飯を食うことと、顔が黄色であることと目玉がうるしのごとく黒く美しいことと、きみに忠なることと親に孝なることと友にあつきことと先輩をうやまうことは世界に対してほこる美点である、それをきみらは浅薄な欧米の蛮風を模倣するとは何事だ、さあ手をあげて見たまえ、諸君のうちに目玉が青くなりたいやつがあるか、天皇にそむこうとするやつがあるか、日本を欧米のどれいにしようとするやつがあるか」
 先生の目には憤怒の涙が輝いた、生徒はすっかり感激してなきだしてしまった。
「新聞の広告や、町の看板にも不心得千万な左からの文字がある、それは日本を愛しないやつらのしわざだ。諸君はそれに悪化されてはいかん、いいか、こういう不心得なやつらを感化して純日本に復活せしむるのは諸君の責任だぞ、いいか、わかったか」
 この日ほどはげしい感動を生徒にあたえたことはなかった。
「カトレットはえらいな」と人々はささやきあった。

佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」 第九章より

……この溢るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に現われた、そろいの帽子ユニフォーム、靴は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは朝日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずる若き武士のごとく見えた。
……(中略)……
 やがて審判者がおごそかに宣告した。
「プレーボール!」
 浦中は先攻である。黙々の投手五大州ははじめてまん中にたった、かれは十六歳ではあるが身長五尺二寸、投手としてはもうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、それは白木綿で母が縫うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で「モクモク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけはよしてくれといった、かれは頑としてきかない。
「おれは日本人だから日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐のまねなんか死んでもしやしないよ」
 これを聞いて黙々先生は感嘆した。
「松下! おまえはいまにえらいものになるよ」

※なお、新学社文庫版を底本としたため、略字略仮名遣い、また制限漢字は仮名に改められている(正字正仮名の底本が手に入り次第、原文に改める予定)。

 この作品が書かれた当時、左横書きは欧米風、右横書きは日本風という認識があったことがわかります。この作品のカトレット先生みたいに、右横書きこそ日本語の正統な書き方という信念を持つ人も、どうやら少なくなかったようです。


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