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一般的に、「幼児の頭の能力では、漢字を理解しにくい」というのは間違っている。お菓子の箱やテレビCMを見慣れた幼児が森永や明治のマークを簡単に識別出来るのと同じで、漢字も意味や読み方さえわかれば簡単に識別できるのである。
そもそも、「漢字は書くのが難しいから幼児に識別できるわけがない」という前提からして間違っている。先の例で言うなら、我々大人は森永や明治のマークを幼児以上に簡単に識別できるが、さてそのマークを実際に描いてみろと言われたら、どれほど正確に描けるだろうか。むしろ正確に描けないことの方が多いだろう。書くのが難しいからといって、識別するのが難しいというわけではないのだ。
だから、まずは漢字という「シンボルマーク」に触れる機会を与えよう。幼児のうちは、漢字をまるでお勉強のように無理に教える必要はない。しかし、「これ何て読むの」と聞かれたら、「難しいから幼稚園児はまだ覚えなくていいの」などと言わずに、ちゃんと教えてやれば、大人もびっくりするほど簡単に覚えてしまうことがある。現に、子供向けのテレビの漫画のタイトルが漢字であっても、どの番組のタイトルなのかは教えてやらずともすぐ認識できてしまう上に、読み方さえ教えてやれば読めるようになるものだ。
幼児〜小学生向けの絵本は、カタカナ語をひらがな書きしていたり、難しい漢字を含む語を、(「かん字」「子ども」のように)半分仮名書き・半分漢字で書いていることがある。
しかしこれでは、カタカナや漢字を子供に覚えるなと言っているようなものだ。カタカナ書き・漢字書きして、振り仮名を振ってやれば子供でも読める上に、知らないうちにカタカナや漢字の読み方を覚えることができる。
小学一年生の国語の教科書では、「一年生で書けるようにする漢字」以外の漢字は使わないことになっている。しかしこの「書けない漢字は読めないはず」という前提は果たして正しいのだろうか。
前項でも述べたように、人間はシンボルマークや漢字を識別するのは簡単でも、書くのはそれより難しいもので、それが自然なことである。これは日本語に限ったことではなく、英語でさえある単語を読むのは簡単でも、正しい綴りで綴ってみろと言われると難しいことがある。これで自然なのだ。
「書けない漢字は読めないはず」という前提は間違っているが、逆に読めない(識別できない)漢字が書けるわけがないのだから、まずは漢字の読みや意味を優先すべきではないのだろうか。一年生が一年生の漢字しか書けなくても良い。しかし二年生や三年生の漢字を少し読むくらいはできていて、その漢字に少し慣れていれば、これから二年生や三年生に上がった時に漢字を書きやすくなるのではなかろうか。
木偏(きへん)など、漢字の縦棒をはねるか、はねないかという問題がある。厳しい学校の先生だと、はねて書くとバツになることがある。
しかし、縦棒をはねる・はねないは大きな問題ではない。「干」(カン)と「于」(ウ)という唯一の例外を除くと、はねる・はねないで違う漢字になってしまうということはない。
他にも、「天」の字の二本の横棒の長さはどちらが長いか、「北」の字の縦棒は下に突き抜けるかどうか、などといった問題もある。
もちろん、明らかに間違った字体はダメだけれど、そもそも漢字とは、このような本当に些細な字体の違いくらい許容する包容力のあるものだ。これは漢字に限ったことではなく、アルファベットでも「Q」の書き方に「Oに交差させた斜め棒一本」「Oに〜」「おたまじゃくし形」とバリエーションが幾つかあるが、それと同じことである(日本人はこれについてもとかく統一させたがるものだが)。
子供には本を沢山読ませたい。しかし、本を読み終わった後、必ず感想文を書かせるようにするというのは、いかがなものだろう。もっとも、たまに書かせる程度なら良いかもしれないが、しょっちゅう書かせるなら、逆に「読書って感想文書かされて嫌なものだ」と読書嫌いになる可能性を含む諸刃の剣だ。
大体、大人だってテレビでプロ野球を見る度に「今日の巨人軍の勝因を400字詰原稿用紙2枚以内にまとめなさい」なんて毎回やられたら、たまったもんじゃないだろう。せっかくのビールが苦くなってしまう。
……このたとえは丸谷才一の受け売りだったろうか。まあとにかく、子供には感想文を書かせることよりも、とにかく本を沢山読ませることの方が優先だというのが、私の考えである。
さて読書感想文だが、これはいくら漢字テストで百点を取れようが、いくら文法的に正しい日本語を起承転結付けてうまく書く能力があろうが、それだけで書けるものではない。これは私自身の経験でもある。小・中学時代に国語の成績が良かった割には、読書感想文はどうしても苦手だったのだ。
その足りない部分を教えるためにも、国語の授業では「この場面での主人公の気持ちは」とか「作者はどんな気持ちでこの作品を書いたのでしょう」などということを教えている。まあ、たまに「これは違うだろ…」「そこまで言い切れないのでは」と思ってしまう解説もあるにはあるが、脱線するのは止めておこう。これを考えるのは、確かに感想文を書くのには欠かせないことである。
ところが、それでもまだ足りないのだ。これだけでは、感想文を書こうにも、ただ粗筋を追うのみに終わってしまう。そもそも、読書感想文とは、自分が読書した感想を書く文章なのだ。自分自身をその物語の世界に投影させてみて、経験、生き方、信条などについて自分と主人公とを比較してみたり、主人公の経験や行動などに自分の考察を加える。これが、特に後者が実に難しいのだ。なぜかと言うと、こればかりは「自分の意見」を持っていることが必要な上に、考察するというのは一種の技術であり、その技術を磨かなければならない。その上、「何について」考察するのか、つまり論題を見付けるだけでも一苦労であり、これこそ一番の難関である。
実のところ、私はこの考察するという技術に限っては、国語の授業ではなかなか習得できず、意外かもしれないが理数系科目、つまり高専の物理・電気実験のレポートを何十回も書かされたことでようやく習得できたという経験がある。「読書感想文を書けるようにするには、自分自身の力で論題や問題点を見付け出し、考察し、結論を導き出すという能力を訓練せよ」という言葉でこの項を締めくくることにしよう。
小学生に作文や詩を書かせる事は多いが、私はむしろ俳句を詠ませてみてはどうだろうかと思う。
「俳句という、五七五の決まり切った堅苦しい定型詩よりも、むしろ不定形の散文詩の方が子供の自由な発想を伸ばす」と考える人もいるかもしれないが、果たしてそうだろうか。
私自身は、小学時代は散文詩を書くのはあまり得意でなく、逆に俳句の方が好きだった。散文詩は、制限のないことが逆に難しかった。書きたい事をあれもこれもと詰め込んで、結局脈絡なく終わってしまう上に、日本語のリズムなどあったものじゃない。しかし俳句は、沢山の言葉の中から、五七五の枠に収まる言葉を選んではめ込んでいくパズルのようで、むしろ面白かった。俳句を作るというのが小学校の授業にないのがとても残念だった。
五七五の枠を用意してやることによって、このように「言葉を選ぶ楽しさ」が生まれ、そこから自由な発想が伸びていく。それだけでなく、「物事を簡潔にまとめる技術」や「日本語の伝統的なリズム」も学ぶことのできる俳句。是非見直したい。