言葉差別の波は聖書にまで(2)


「癩(らい)病」、それとも単なる「重い皮膚病」?

 聖書の「新共同訳」ではこのように、イエス・キリストが癒やしたのは癩病人ではなく、「重い皮膚病を患っている人」と訳されている。

 あらかじめ断わっておくが、私は癩病患者に対する不当な差別(それを癩病と呼ぼうが、ハンセン病と呼ぼうが)をよしとする意図はないし、医療が発達した現在においてそれは「不治の病」でなく「治る病気」となっており、一般に感染力も低い病気であるということは十分承知している。また、病気が治癒したにもかかわらず、社会から拒まれて療養施設での生活を余儀なくされた日本の多くの患者や、療養施設で非人道的扱いを受けた患者に関して言うなら、このような仕打ちには憤りを覚えるほどだ。

 しかし、この「新共同訳」での書き換えは、果たしてどうなのだろうか。なるほどと思う反面、疑問も残る。

 まず、「癩病」という言葉を避けたことは、なるほど、一理はあるのかもしれない。聖書では、必ずしも「癩病」=「ハンセン病」ではないからである。一般的な聖書で「癩病」と訳されている言葉の用法について気付いたことだが、現在「ハンセン病」として知られている人間の病気だけでなく、もっと広い範囲を指している。「衣の癩病」「家の癩病」(レビ記十三〜四章参照)、恐らくは衣服や家屋のかびのことだろうが、それも「癩病」と同じ言葉で呼ばれている。新共同訳では衣や家の癩病を「かび」と訳し分けている。

 さて、上に引用した聖句であるが、当時癩病患者は隔離生活を送っており、肩身の狭い思いをしていた(とは言え、監獄まがいの収容所に強制的に入れられたというわけではなく、ただ町外れで生活していただけであるし、治癒すれば元の生活に戻れたのは、かつての日本に比べるとましな待遇だった)。しかしイエスは「うつると怖い、汚らわしい病気の患者」だと一般社会からみなされ、皆が触れなかったその人に、(触れずに癒やすこともできたにもかかわらず)わざわざ手を差し伸べて触れ、病気を癒やしたのである。しかし、ここから「癩病」という言葉を取り除き、単なる「重い皮膚病」とするなら、かえって、この癩病患者の当時置かれていた状況を軽視し、時代背景を失うことになるのではなかろうか。私はこう思う。

 聖書に「癩病」という言葉が使われていることは、癩病患者に対する差別を煽ることになるどころか、むしろ逆なのではなかろうか。少なくとも私の身近に知っているクリスチャンの中には、聖書に「癩病」という言葉が書いてあるからといって、癩病患者差別をしている人など、見たことがない。普通はむしろ、(病気そのものは怖いけど)患者に対しては同情的になるのではないだろうか。特にイエス・キリストがどのように癩病患者と接したのかを読んで、私には癒やす力はないけど、同じように気遣いを示してあげられたら、と思った人は多いはずである。しかも、現代の医療に関する知識や医療技術の進歩、そして法律の改正により、その気遣いを今では昔よりずっと示しやすくなったが、それを歓迎するクリスチャンは少なくないに違いない。

 最後に一つだけ付け加えるならば、残念ながら、少し昔に書かれた、聖書を解説する資料の中には、癩病は「伝染性の高い病気であるという医学的理由により」、ユダヤ人社会では隔離が義務づけられていた、のように書かれていることがあるが、これは現代の医学知識からすると誤りだろう。聖書学者の中には、これは医学的理由からではなく、むしろ宗教的、儀式的意味だったとするのが正しいだろうとする人もいる。


他の翻訳に見られる「癩病」の訳語

 最近、「新改訳聖書」の改訂版が出たらしいが、この改訂版では旧訳・新約とも、癩病を意味するヘブル語の「ツァラート」やギリシャ語「レプラ」を、「ツァラアト」と訳している。「衣の癩病」「家の癩病」についても、新共同訳の「かび」ではなく「ツァラアト」となっている。

 これも一つの試みであろう。単に名無しの「重い皮膚病」よりも、名前のある病気の方が、キリストが地上にいた頃に癩病人が置かれていた当時の状況をより深く知る助けになる。


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