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日本基督教団出版局発行の「讃美歌・讃美歌第二編・ともにうたおう」という讃美歌集には、このようなペラがはさまれていたという。そしてついに、この讃美歌集も役目を終え、「国家神道的表現、差別語、不快語」を取り除いた、新しい「讃美歌21」に置き換わったという。
しかし、これらは果たして本当に「不快語」なのだろうか(聖書から採られた言葉も多いが、仮にも聖書を信じている
こんな「書き換え」が一般化するようになると、次のターゲットとして狙われるのは、他の讃美歌集や様々なキリスト教関連出版物であるのは自明であり、それも時間の問題だろう。そうなる前に、このうち幾つかを検証したい。
「『賎(しず)の女(め)』など女性差別も甚だしい。『おとめマリヤ母として』と言い換えたのはふさわしい。」果たしてそうだろうか。
まず、「賤」という言葉の意味を調べてみよう。「広辞苑」第四版ではこのようになっている。
しず【賤】シヅ
[一]〔名〕いやしいこと。身分の低い者。「―が家(ヤ)」「―の庵」「―の男(オ)」
[二]〔代〕自分を卑下していう称。わたしめ。近世、幇間などが用いた。浄、淀鯉「―も昔は恋を磨き」
「賎(しず)の女(め)」とは、恐らくルカ伝一ノ三十八で、御使がマリヤにイエス懐妊を伝える場面で、「マリヤ言ふ『視(み)よ、われは主の婢女(はしため)なり。汝の言(ことば)のごとく、我に成れかし』」と言った部分が基になっていると思うが、名も無き一人の女であるマリヤが、メシヤとなる子供を産む責務を神から与えられたとなれば、その責務の重大さにかしこまるのも当然のことだろう。つまりこれは「神様からすれば私は卑しい存在ですが、それでも神様の思し召し通りに致します」と謙遜して言っているだけのことで、差別うんぬんは関係ないのではなかろうか。
つまり、「賎(しず)の女(め)をば母として 生れまししみどりごは、」とは、神から見るなら卑しい存在で、アダムの原罪を背負っている一人のつたなき人間であるマリヤが、救世主イエス・キリストを産むという比類無き任務を与えられ、またそのキリストは我々同じように卑しき人間を救ってくださるのだ、という意味が込められているのだと私は解釈する。
「その頭(こうべ)には かむりもなく、その衣には かざりもなく、まずしく低き 木工(たくみ)として、主は若き日を 過ぎたまえり。」
この「まずしく低き 木工として」と、言い換え後の「人の住いを ととのえつつ」とでは、全く大違いである。それは背景を考慮すれば自ずとわかってくる。
イエスの家族は貧しかった。ヘブライ人は律法により、子供が生まれると、エルサレムの神殿にある祭壇に羊を犠牲に捧げることが求められていた。しかし貧しくて羊を捧げる余裕のない人は、羊の代わりに山鳩か家鳩二羽でよいことになっていた(レビ記十二章)。イエスの家族は山鳩か家鳩二羽の方を選んだ(ルカ伝二章)ので、経済状況はここからわかるだろう。
イエスはメシヤというくらいだから職業は飯屋……というとんち話は置いといて、皆さんご存じの通り、大工だった。マタイ伝十三ノ五十四〜五十七には「己が郷にいたり、會堂にて教へ給へば、人々おどろきて言ふ『この人はこの智慧と此等の能力(ちから)とを何處(いづこ)より得しぞ。これ木匠(たくみ)の子にあらずや、……然るに此等のすべての事は何處より得しぞ』遂に人々かれに躓(つまづ)けり。」とあるが、イエスは神学校を出たエリートでなく、貧しい大工の出だった(今風に言うなら、学歴が低かった)のに、会堂で人々に上手に説教する能力があることに人々は驚いたが、しかしそんなイエスを地元の人々は受け入れてくれなかったのである。階級差別意識の表われだったのかもしれない。
しかし、イエスは世間で「高い階級」「低い階級」とみなされている人であっても、分け隔てなく接するのが常であった。ユダヤ人の宰(つかさ)でパリサイ人のニコデモ(ヨハネ伝三章)から、イエスの癒やした多くのらい病人や盲の乞食(ヨハネ伝九章)などのように社会的に虐げられた者たちまで。またユダヤ人はサマリア人を差別し、女性を見下していたが、イエスはそのような者にも普通に接したため、サマリア人の女にかえって驚かれたほどであった(ヨハネ伝四章)。
ユダヤの民は多くの預言者の語った、王なるメシア(救世主)を待ち設けていたが、それが華々しい登場であり、今すぐローマの圧制から救い出してくれることを期待していたのだろう。しかしイエスはそのような者ではなかった。決してエリート階級ではなく、貧しい大工として育ち、弟子も漁師や取税人(ローマ人とくみしているため嫌われ者だった)など、当時社会的に立場の低かった者ばかりをとったイエスは、エリート階級の神学者たちと異なり、同じ貧しき者にも優しく接したのである。そう、自分たちと同じ貧しい階級から生まれ育ったヒーロー、自分たちの気持ちを汲んでくれる優しい教師だったからこそ、貧しい者や社会的に虐げられた者たちが大勢、イエスのあとに付いていったのである。
なお、「木工(たくみ)」という言葉も「不快語」としてつるし上げられているらしいが、「大工」より「たくみ」の方が余計に立派な表現ではなかろうか。「巧みな技」の「巧み」に通じ、むしろ大工の技術に目を留めてほめる雅語である。「文語的な古い表現」として削除されたならまだしも(それでも納得いかないが)、「不快語」であるとはどうしても納得いかない。
このような背景を考えるならば、この「まずしく低き 木工として」は削除すべき「不快語」などと言えるのだろうか。イエスの示した、貧しく低き者への関心と配慮は、どこへいってしまったのだろう。疑問である。
モーセの律法の字面を一字一句守ることに異常な執念を燃やしたパリサイびと。一方、字面を機械的に守るのではなく、律法の背後にある意図を汲む事が重要であると教えたキリスト。
果たして、一部キリスト教書籍に見られるこのような“言葉狩り”は、どちらの態度を反映しているのだろう。いずれにしろ、言葉の背後にある意図を無視して字面ばかりにとらわれる愚を犯してはならない。