くろんぼ 愛称にもなれば蔑称にもなる

 私の子供時代には、「ちびくろサンボ」という絵本をよく読んだものである。お父さんのジャンボとお母さんのマンボに子供のサンボ、そして虎たちを交えたコミカルで楽しい話だったのを覚えている。この話を含め、「くろんぼ」という語は、かつてごく一般的に使われていたように思う。

 確かに、我々は現在と違い黒人についてそれほどたくさん知っていたわけではない。顔に白や赤や緑のカラフルな化粧をし、腰に腰みのを付け、ヤリを持ちドラムに合わせて輪になって踊る狩猟民族。平和な民族もいれば、たまに人喰い人種もいて、白人探検家のみならず平和な黒人民族すら食い物にする。当時の私は、黒人に関しちょうどこんな印象を持っていた。

 もっとも、小学時代よく見ていたクイズ番組「なるほど!ザ・ワールド」をはじめとしたテレビ番組や本などによって、黒人と一口に言ってもああいったステレオタイプで一くくりにできるものでなく、今の黒人のほとんどは「近代文明の恩恵を受けた」生活をしていることがわかったし、黒人奴隷の歴史とかキング牧師の公民権運動などを知るにつれ、白人たちの黒人差別の歴史を知るようになってきた。

 私は「くろんぼ」という言葉がまだタブーでなかった時代を見てきたので、はっきり言えるが、「くろんぼ」は差別用語ではない。むしろ、特に子供向けの絵本などがそうだったが、親しみを込めて呼ばれたケースがむしろ多かったように思う。

(もちろん、昔ある政治家が言ってたような「くろんぼはみんな低脳でバカだ」みたいな発言までいいと言っているわけでないし、これは偏見ゆえの問題発言だろう。「くろんぼ」という言葉を使ったことそのものが悪いわけでなく、「くろんぼ」を「黒人」に置き換えたところで問題発言であるのに変わりない。)

 また、日本人でさえ「くろんぼ」と呼ばれる季節がある。夏休みが終わり、他の子よりよけい日焼けしている子供は「くろんぼコンテスト」で優勝して鼻高々になるものである。

 しかし、そんな子の中にも、冬の間は「くろんぼ」とか「少年ケニヤ」とか呼ばれるのを嫌がったりする子もいるもので、不思議なものである。

 要は、自分の肌が黒いことに誇りを持っているか、それとも恥ずかしく思っているかの違いなのである。黒い肌を誇っている子は「くろんぼ」と言われるとニンマリする。恥ずかしがる子は「くろんぼとか少年ケニヤとか言われていじめられた〜」と泣き出すのである。

 そういう子が身近にいた時、「かわいそうだからその子に『くろんぼ』とか『少年ケニヤ』なんて言っちゃいけません」と言うだけでは、一時的な解決策に過ぎない。むしろ、色の黒いことで人をからかってはいけないことを教えていきながら、「色が黒くても恥ずかしくない」と自信の持てる社会を作っていくことこそ、より永続的な解決策である。その時、「くろんぼ」は恥ずかしい言葉でも“差別用語”でもなくなる。


 さて、「ちびくろサンボ」という絵本がある親子三人グループの圧力により絶版になっていることは、皆さんもご存じかと思う。果たしてこの「ちびくろサンボ」は差別的な絵本なのだろうか。

 否、全くそうでないばかりか、むしろこの絵本は色黒の人々に愛着を持ってもらうのに優れた本ではないか。私はそう思う。

 まず題名についての問題だが、「ちび」は差別用語でなく愛称として使われているし、「くろ」も然り。「サンボ」は差別的だ、いやそうではないと侃々諤々らしいが、少なくとも英語版初版の出た当時、“差別用語”でなかったらしい。

 母と父の名「マンボ」「ジャンボ」合わせて「ちんぷんかんぷん」という意味なのが侮蔑的という批判があるが、果たしてそうだろうか。「ヤン坊」「マー坊」合わせて「ヤンマー」とか「ヤンボウ・ニンボウ・トンボウ」といった類の、語呂合わせで名前を付けるという例は、絵本の世界ではごく一般的である。なお、ディズニーの漫画映画「ダンボ」で、ダンボの母親はジャンボという名前であるが、これはどうなのだろうか。

 内容も、きちんと上着とズボンと靴と傘、という、西洋文明の恩恵を受けている、いわゆる「文明的生活をしている」人々の話である。くろんぼだから腰みのだけとか、葉っぱの傘に裸足、などとは限らないことを、私は幼くしてこの話で知った。

 さて、サンボは襲ってくる虎を、頭を使って追い払ってしまう。それだけでなく、身の代として取られてしまった服を、四頭がもめている間に取り返してしまう。サンボは何て頭がいいんだろうと、この物語を読んだ子供たちは思うに違いない。“くろんぼはみんな頭が悪い”なんて考えは、絶対間違っているのである。

 さて、サンボはこの手柄によって、タイガー・ギー(虎バター)なる珍味を使ったホットケーキを家族でたらふく食べることになる。サンボは、家族の役に立つ、りっぱな男の子と言えるだろう。

 この部分についても、「地面に落ちている食べ物を拾って食べる不潔な人種という偏見を植え付けている」などと主張する人がいるらしいが、それは勘違いである。地面にある食材を拾い集めて料理の材料に使うことと、地面に落ちている食べ物を拾ってそのまま食べることとを混同しているトリックに騙されないように。この考えでいくと、私は岩海苔が大好きなのだが、岩にへばり付いている食べ物を拾ったものだからバッチイのだろうか。

 さて、ここで作者は、バターのことをインドで「ギー」と呼ぶと注釈を加えている。このことや、虎が出るということ、そして作者がインドで生活していたことから考えるならば、サンボはアフリカ人ではなくインド人をモチーフにした可能性が高い(参考までに、インド人は肌の色は濃いが、多くは人種的にコーカソイド(白人)に分類されるらしい)。ついでに言うならば、「サンボ」という言葉はインドの言葉に由来するという説もあるようだ。

 なお、マンボ・ジャンボ・サンボが27・55・169枚もホットケーキを食べたのは、黒人は食いじが張っているという偏見なのではという批判もあるが、これは考えすぎだろう。絵本はあくまでもフィクションの世界である。「サンボの一家は黒人だからあんなに食いじが張ってるんだ」なんてうがった見方をするのは、ひねくれた大人だけである。「わあ、いいな、自分もサンボみたいにあんなにたくさん、食べきれないほどホットケーキを食べたいな!」と子供は素直に感じるものだ。

 このように、「ちびくろサンボ」は、黒人差別であるどころか、むしろ色黒の人々をたたえる絵本として私は高く評価したい。百年前の作品に多くを要求するのは無理かもしれないが、それでも、その帝国主義また人種差別のまだはびこる時代に、これほどりっぱな作品を残せたのはすばらしいではないか。私はそう思う。

 もう一度言うが、「ちびくろサンボ」は差別図書ではない。特定の単語の自己解釈でキーキー言う代わりに、文脈をよく読めば、この本が決して差別を目的に書かれていないだけでなく、色黒の子供を親しみを込めて描いた本であることがわかるはずである。

 それを裏付ける数々の証拠にもかかわらず、なおも「ちびくろサンボ」と黒人差別をこじつけるのは、はっきり言おう、「ノストラダムスの大予言」とか「聖書の暗号」とかと同じような、トンデモの類である。そりゃあ、どんな本だって、文脈を無視して自己流解釈するのは簡単だし、そうやって自分好みのどんな結論だって導けるものだ。

 全く、こんなトンデモを信奉するのは、「ちびくろサンボ」をうがった目でしか見られない、ひねくれた心の大人か、そのような意見を鵜呑みにしてしまったかのどちらかである。

 「ちびくろサンボ」を絶版に追い込むことは、絵本の世界から罪なき色黒のヒーローを追放することに他ならないのである。ただでさえ、そんな絵本は少ないというのに。


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