皆が持つ弱者をいたわる気持ちに便乗すれば、弱者をダシにすれば、どんな屁理屈も通用すると考えるのは大間違いです。種明かしをしてみせましょう。
おやまあ、これで差別反対者とは聞いてあきれた。
この「教養がない」とは、どんな人の事を念頭に置いて言っているのでしょうか。「教養がない」とは「無学である」とか「あまり物事を知らない」という意味だったと思いますが。皆さんに、この発言のおかしい部分に自分で気付いてよく考えてもらうために、私のコメントはあえて省略します。
マスコミはマスコミ、自分は自分。
本当の意味での差別用語なら私自身もこの意見に賛成です。しかし問題なのは、差別的でない語や表現に言いがかりを付けられて過剰な自主規制がなされているケースが大半を占めていることです。
また、マスコミの基準はあくまでもマスコミの基準であって、個人の基準ではないということも知ってください。似た例として、マスコミは「セロテープ」「プラモデル」「サランラップ」「宅急便」などの会社の商品名を使わず、いちいち「セロハンテープ」「プラ模型」「食品用ラップ」「宅配便」などと言い換えることがあります。NHK教育の工作の番組で商品名の部分にテープを貼って隠したり、民放のドラマでもスポンサーのライバル会社の看板が出るとモザイクを掛けていることがあります。
しかし、私たちもこの方針に従うべきなのでしょうか。いいえ、これは単にテレビ局などマスコミだけの方針に過ぎません。あくまでもマスコミの都合上、特定の企業を宣伝していると誤解されそうな語を自主規制しているだけで、我々の日常生活での基準とは全くかけ離れたものであり、それに従う必要は全くありません。
同じように、マスコミが決めた“差別用語”リストも、あくまでもマスコミの都合上のものであり、我々が日常生活での基準とは全くかけ離れたものであり、それに従う必要は全くありません。
とは言え、マスコミが決めた“差別用語”リストは、百パーセント意味のないものとも言えません。用法に気を付けないと人を傷つける可能性のある言葉を集めたものだからです。ただ、マスコミは文脈を判断せずただ機械的に言葉を禁止していることが多いので、それが問題なのです。我々はその間違いを犯すことなく、どんな場合はその語を使ってよいか悪いか、またどんな用法がとくにまずい使い方なのかを判断する力を培いましょう。
それは気にし過ぎです。
逆に私も質問します。韓国人にチョン(全)さんという名前の人がいます(そういえば、全斗煥元大統領も全という姓です)。何が何でも「チョン」と言ってはいけないのなら、この人を何と呼べばいいのですか。
すると恐らく、「全さんはチョンさんとしか言いようがないから仕方ない。でもチョンボやチョンガーはミスとか独身男とか幾らでも言い換え語があるから使ってはいけないのだ」とか、「日本語はいけないが、韓国語なら構わないのだ」などという反論が返ってくるかもしれません。まあ、この苦しい言い訳をした人には、「それでは、日本語読みでゼンさんと呼ばないのは何故なのか」「日本語はいけないが、韓国語ならよいという根拠はどこにあるのか」をゆっくり考えてもらうことにしましょう。
受け取る側の快・不快だけに頼った判断は危険です。それに、確かに無頓着なのも考え物だが、極端なほど気をもみ過ぎるのも考え物です。
結論から先に言うならば、他の人が自分の言葉を不快に思わないかどうかに、あまりにも無頓着なのも考え物だけど、かえって極端なほど気をもみ過ぎるのも、やはり考え物でしょう。
大体、あんなことを言ってたら、何も言えなくなりますよ。例えば、「もしかしたら見たり聞いたりしているかもしれない受験生が不快になるといけないから、『落ちる』『滑る』という言葉は使うべきでない」とか「新婚カップルが不快になるといけないから、『切れる』『終わる』という言葉は使うべきでない」などと言ってたら、もう使える言葉はどんどん無くなってしまいます。
若者には、電車やバスで老人に席を譲るのをためらってしまう人が多いそうです。それは何故かというと、「おばあちゃん、席どうぞ」と言うと、「わたしは年寄りではない!」と怒られてしまうことが時々あるからです。自分が良かれと思ってしたことが、相手を傷つけてしまったのです。しかし、だからと言って、「老人を傷つけてしまう事があるから、老人に席を譲るのは止めよう」とか「老人、年寄り、おじいちゃん、おばあちゃんという言葉は老人差別用語だから今は使えない」などと言うのは、極端な行動です。
昔、イソップ物語の「ろばと親子」という話を聞いた事のある人は多いでしょう。子供がろばに乗ると「親を乗せるべきだ」、親がろばに乗ると「子供がかわいそう」、二人がろばに乗ると「ろばがかわいそう」、二人がろばを担ぐと「おかしい事をしてる」と言われてしまうという、あの話です。
全ての人が満足する心地良い話し方、などというのは全くの幻想です。何を言ったって、その言葉につまづく人は必ずいるし、何をやったって、文句を言う人は必ずいます。しかも、こちらが良かれと思ってしたことが、良く思われないなんて、ありふれた事です。もちろん、その意見には本当に良いものもあって、本当に改善しなくてはならないこともあるでしょう。しかし、勘違いに基づいた意見だとか、わがままだとか、馬鹿げた意見にまで、何も考えずハイハイと返事することはありません。そんな事をしていたら、あのろばを担いだ親子のようになってしまいますが、それを笑っていられないのが、今の日本の現状なのです。
それでも納得してくれないのなら、私からもお願いがあります。私は“差別用語”という言葉は、使い方を無視して言葉に罪を着せている責任転嫁の態度が見え見えなのでとても不快です。こどものことを“子ども”と書くのは子共と侮辱しているみたいで不快です。こういう言葉を嫌がっている人は私の他にも大勢いますが、あなたがそういう言葉をいつもいつも使うのは言葉の暴力なのではありませんか。さあ、人の嫌がる言葉を使わないのがあなたの信条なら、これらの言葉を使うのをちゃんと止めてくれますか。もしそうしないのなら、それはどうしてなのか、よく考えてみてください。
最後に言わせてもらいます。確かに「差別用語は歴史が作り出すもの」かもしれませんが、その歴史を作り出そうとしているのは、言葉が多様な意味に使われてきた歴史をわざと隠蔽して「不快なイメージ」一色に塗りつぶそうとしているのは、言葉狩り推進論者の側ではありませんか。盗人猛々しい。歴史修正主義反対者が聞いてあきれます。
その「弱者への配慮」とは、本当に当事者自身が思っていることですか。それとも周りの人が変に気を遣っているだけですか。
知らない事と言いますが、一部の人が勝手に決めた変テコな決まりなら知らなくて当然です。自分たちだけの間でしか通用しない勝手な決まりを作って他人に押しつけ、それも正論ならまだわかるものの、なぜ守らなくてはいけないかと問うと「疑問を抱くこと自体おかしい」「差別用語は差別的だからいけない」ばかりで全然理由になっていなくて、しかもそれを守らない人を差別主義者扱いするというのは卑怯ではありませんか。私にとってこれは「エッヘン、自分たちは人権意識に目覚めた人間で差別をしてないぞ、周りの人間は差別ばかりしてるおばかさんばかりだ」などと自分や自分のグループが威張りたいためにスケープゴートを探しているだけのように見えて仕方ありません。
なるほど、本当の意味で差別発言をする人が、弱者に対する配慮が欠けているということには、私も同意します。
しかし、現在広く見られているような、何も差別的でない表現まで、重箱の隅を突いて揚げ足を取って糾弾する態度こそ、配慮の欠けた行動ではありませんか。「うっかり口を滑らせたら人権団体にひどい糾弾を受けそうで怖い」という恐怖が一般に蔓延している原因はまさにこれであり、それは社会的弱者に真の思いやりを示すどころか「何かされたら怖いから」という消極的な理由で見かけばかりの“思いやり”を示すだけに終わります。社会的弱者とそうでない者との溝をより深くすることすらあれ、埋める事など期待できません。言葉狩りはむしろ「差別根絶の敵」と言えましょう。
だから言葉狩りは正しいとでも言いたいのですか。論理が飛躍しています。それに、弱者をだしにして自分の意見を押しつけたいという魂胆が見え見えです。
確かに、弱者が差別される痛みは弱者にしかわからないというのは事実です。だから弱者の立場に立って考えるのは大切な事です。弱者を差別してはいけない、弱者を差別する発言をしてはいけない。これも正しい事です。
しかし、だからこれこれの単語は“差別用語”だと決まっていて、使ってはいけない、と来るのは論理の飛躍です。弱者をだしにして自分の意見を押しつけたいという魂胆が見え見えです。あたかも自分が弱者の総意を代表しているかのように誤解しています。そのような考えの人も一部にはいるかもしれませんが、実際には多種多様の考えの人がいるはずです。
なるほど、ナイフで切られる痛みはナイフで切られたことのある者でないと理解できないでしょう。だからもしナイフが皮膚を切ってしまったらと考えるのは大切な事です。喧嘩にナイフを使ってはいけない、ナイフで人を刺してはいけない。これも正しい事です。
しかし、だからナイフは“人殺しの道具”で全く使ってはいけないというわけではありません。見知らぬ人が自分にナイフを向けたら怖くて逃げるけど、大好きな母親が果物ナイフで林檎をむいていたら逆に母の膝元に寄ってくでしょう。ナイフは鉛筆を削ったり、工作に使うなど良い目的に使うこともできます。山登りでは登山用ナイフを携帯しますが、人殺しの道具どころか人間の命を救うために使われることもしばしばあります。
言葉も同じことです。ナイフのように刃先の鋭い言葉は、確かに気を付けて使わなければなりません。しかし、人を傷つけるかもしれないから全く使ってはいけないというのは行き過ぎた態度だと思います。そんなこと言ったら何も言えなくなります。いわゆる“差別用語”でなくたって、人を鋭く傷つける表現はいっぱいあるので、単語単位でこれは良い悪いという判断には限界がある上に間違っていると思います。
たとえが悪いです。
「ジャップ」や「エタ」のような人種・民族や社会的階級を表す語とは異なり、「サンボ」というのは元々人の名前であり、比較の対象になっていません。もっと適切なたとえを考えましょう。
かつて一般的に使われてきた、あるいは現在も使われている人の名前に、特定のイメージが付くことは、よくある現象です。まず日本語の例を出しますが、「太郎」「花子」という人名は「男の子」「女の子」という意味でも用いられます。昔広く使われていただろう「五右衛門(ごえもん)」「権兵衛(ごんべえ)」「権太(ごんた)」「お亀」「お岩」という名前に、どんな別のイメージが付いているかについても、あえて語る必要はないでしょう。最近の例でいうなら、「冬彦」さんという名前は、“キモいマザコン”の代名詞的にしばしば用いられます。
英語にも同じような例があります。Jackはさしずめ日本の「太郎」といったところだし、Johnは便所の意味として使われることもあります。Lolitaという女性名は説明するまでもないでしょう。
「サンボ」という名前も、確かに黒人を含め色黒の人をからかう文句として悪用されることがありました。しかし考えてみてください。日本人の中には、黒人とか色黒の人に、たとえば「クロマティ」とか「サンコン」などといった渾名(あだな)を付けたがる人がいます。私が小学生の頃には、「少年ケニヤ」という渾名が嫌で嫌で仕方なかった色黒の級友がいました。これに似たことではないでしょうか。それでは、「クロマティ」という言葉が黒人をからかう言葉に悪用されることが一般的なら、昔巨人軍にいたクロマティ選手の話をすることも、「クロマティ」という名前の黒人野球選手の出てくるフィクション作品を作ることも、たとえ黒人差別の要素がなくともタブーになるのでしょうか。そんな馬鹿な話はないはずです。「サンボ」という名前についても、同じ事が言えるのではないでしょうか。
一つの言葉には多様な意味やイメージがあります。新しく付いた悪いイメージが残りつつも、昔からの良いイメージでも使われる言葉というものがあり、正反対の意味のどちらになるかは使い方次第なのです。
おっしゃる通り、「貴様」は、親しみのこもった言葉としての用法は今では死語に近くなりました(「同期の桜」という歌を知っている人なら、出だしの「貴様と俺とは、同期の桜」というのは親しみのこもった表現だというのがすぐわかるでしょう)。確かに、良いイメージがほとんど絶滅して、悪いイメージで使われるようになった言葉というものは、あります。
対して「おまえ」はどうでしょう。親友や家族などの間では親しみのこもった言葉になるのは皆さんも御存知のことでしょう。つまり、親しみのこもった言葉としての昔からの意味と、後に付け加えられた、相手を見下した言葉としての意味とを、両方持つ言葉なのです。これは当然、その言葉の使い方によって意味が正反対に変わってしまいます。
例えば、「昔は敬語だったからいいのだ」などと言い訳しながら、初対面の人だとか会社の上司を「おまえ」とか「貴様」と気安く呼ぶのは失礼でしょう。言い訳にならないし、場をわきまえなければなりません。それは大人げないことであると言っておきましょう。
似た例として、「めでたい」という言葉もあります。これは元々良い意味だったのが、後に「あんたはおめでたい奴だ」のように悪口にも使われるように変わっていきました。しかし、「合格おめでとう」とか「結婚おめでとう」と言うのは「あんな変な学校に入ったなんておめでたい奴だ」「あんな奴と結婚したなんておめでたい奴だ」などと誤解されるといけないから控えるべきだなどと考えるのは、考え過ぎというものです。このように、一つの言葉には多様な意味やイメージがあり、使い方によって変わるということを忘れてはなりません。
「言葉の意味は時代によって変わる」のは確かですが、言葉の意味を変えようとしているのは、言葉の多様な意味を滅ぼして「差別用語」のイメージ一色にしようとしているのは、言葉狩り推進論者の側ではありませんか。盗人猛々しいというものです。詭弁でゴリ押しした後、既成事実を盾に開き直れば受け入れられると考えるのは卑怯者の考えです。「言葉が乱れる時国は滅びる」とも言いますが、まさに国語の破壊行為です。
かつてTBSの「全国こども電話相談室」で、ある小学生の質問に永六輔先生がこんな興味深いお答えをしていました。以下に引用します。
Q. はがきとかに「○○様」って書くけど、同じ「様」を使う「貴様」という言葉はいい言葉なんですか? 小3・おんな
A. あのね、実は「貴様」っていうのは、もともとは相手を悪くいう言葉ではないの。
「貴い」という字と「様」という字で構成されているぐらいだからね、昔はとっても大事な人のことを「貴様」って言ってたのね。
それがだんだん「きさまぁ!」って、悪くいう感じに変わってきちゃったの。他にも、例えば「馬鹿」って嫌な言葉でしょう?だけど、お母さんがキミのことが可愛くて仕方がなくって「バカねぇ」っていう時って全然嫌な感じがしないじゃない?こういう風に、言葉というのは意味がだんだん変わってくる場合があるんです。
それから、もう一つ。あなたのお友達でも自分のことを「ぼく」っていう子がいるでしょう?あの「僕」という言葉は本当は「しもべ」と言う意味で、一番悪い言葉なんです。それがだんだん意味が変わってきて、普通に使える言葉になったの。昔は自分が相手に対して「私はあなたより身分が低い」という意味で使ったんだよ。
面白いね、言葉って。使う人の問題なのね。「貴様」っていっても大事な意味できちんと使う人もいれば、相手をいじめる時に使ってしまう人もいるんです。本当に言葉というものは、使う人が意味を変えてしまうものなんです。だから、キミもこれから言葉は大事に使って下さいね。
放送タレント・永 六輔 先生
一つの言葉には一種類のイメージしか付かないというのは間違いです。それに、その“歴史”とやらは本当に正しいものですか?
そのような言葉は、同じように差別的な方法で使うのを避けるべきであることは、もちろんのことです。しかし差別的にもそうでなくも用いられてきた言葉を、ただ単に差別的・侮蔑的な用法が過去にあったというだけで抹殺するのはどうでしょう。
例えば、「支那」にはかつて日本人が侮蔑的に呼んできた歴史があるから、「支那」には既に侮蔑的な意味合いが染みついている。従って、「支那」という言葉は差別用語だから使うべきではない、などと主張する人がいます。しかし本当にそうでしょうか。実際には、昔も今も、エキゾチックな魅力にあふれる夢の国という積極的イメージもまた付いているのではないでしょうか(昭和初期の日中間に緊張があった時期でさえそうでした)。「中華そば」よりも「支那そば」の方が、昔懐かしい伝統的な味という良いイメージを感じるという人は少なくありません。
これはたとえるなら、共産主義者は「赤」と言われて侮蔑されてきた歴史があるから、「赤」には既に侮蔑的な意味合いが染みついている。従って、「赤」という言葉は差別用語だから使うべきではない。「紅色」という代わりの言葉もちゃんとあるのだから、それを使うべきだ、などと言っているようなものです。しかし実際には、「赤」という言葉には、赤い夕焼けや情熱の赤のように、積極的イメージもまた同時に付いているのです。「あいつは赤の手先だ」などと言われるのは嫌なものですが、「あいつの情熱の炎は真っ赤っかに燃えている」というのは、ほめ言葉になるもので、要するに使い方次第なのです。
一つの言葉には一種類のイメージしか付かないというのは間違いです。前項に引用した永六輔先生の言葉にもあったように、その言葉の使われる状況や前後の文脈によって、同じ言葉にも、使われ方によっていろいろ異なったイメージが付きます。そのことを考慮に入れながら、その時々に応じてふさわしい言葉の使い方をするよう心がけたいものです。
動機がちょっと違うのでは?
では、差別用語を使うようにするのが現代の風潮になったら、それを受け入れるのですか。差別をなくすべきなのは、そもそもそれが人間としての道徳常識だからだと私は思うのですが。現代の風潮だから差別をなくせうんぬんというのは、本当に被差別者の気持ちを思い遣っているのではなくて、ただカメレオンみたいに周囲の色に自分を合わせているだけだと思いますが。
本当の意味での差別用語をなくすのは私自身も賛成だし、この“現代の風潮”に乗りましょう。しかし、差別的でない語や表現に対する過剰な自主規制という事実をうまく利用して、それが“差別用語”であるという意見を既成事実化し“現代の風潮”などと呼んで押しつける態度には反対です。
ドイツの反応は異常であり、ナチスの末裔的態度に見倣うことはありません。
西欧諸国、特にドイツは、ナチス時代の鉤十字だけでなく、東洋の仏教に由来する卍でさえ、ナチスを連想させるとして厳しく排斥する傾向があります。このような姿勢こそ社会的少数者に対する配慮であり、日本人の模範とすべきところだと主張する人もいますが、果たしてそうでしょうか。
はっきり言います。こういうのは社会的少数者に対する配慮などとは言いません。過剰反応、「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」と言うのです。私はナチスやファシズムを激しく憎んでいますが、反ファシズムの名による言論ファシズム、つまり、差別主義でなくとも、どんなに正論でも、反対意見を言わせない、反対意見を言った者をネオナチや歴史修正主義者扱いして弾圧する、結果としてこのような問題に関する議論をタブー化するという態度はいかがなものでしょう。
そもそも、反ナチズムの立場の人々の誰もが清廉潔白とは限りません。一例として、一方でヒトラーによる自分たちユダヤ人迫害を糾弾しながら、他方で自分たちはパレスチナ人を迫害するというイスラエル国の態度、これを矛盾と言わず何と言いましょう。あの忌まわしきユダヤ人迫害の歴史を、自分たちの行動を正当化するための道具や、悪事の隠れ蓑として使っている不届き者も、残念ながら一部にいます。反ナチズムならどの意見も正しいと盲目的に信じるのは危険であり、冷静に判断することが必要です。
お人好し過ぎです。それに、つまらぬ事でいちいち理屈をこね始めたのは、あなた方のほうではありませんか。
大体、日常普通に使われてきた言葉に対し、「○○という言葉は差別用語だ」などと、いちいち理屈をこねて言い出す人が出てきたからこそ、まるで我々が差別主義者であるかのように濡れ衣を着せたからこそ、「それは違う」と反論せざるを得なくなったのではありませんか。
そもそも、身に覚えのないクレームをいちいち真に受けるなんて、そういうのをお人好しというのです。ヤクザから、身に覚えのない何万円もの“インターネット情報使用料”を請求された時、「払ってしまえば円く収まる」といって料金を振り込んでしまいますか。それは一時的解決どころか、かえって逆効果です。ヤクザに“こいつはいいカモだ”と思われ、ずっとタカリのターゲットにされてしまいます。
この“差別用語”問題も、しばしばタカリとか一方的なイデオロギー教育の手段として悪用されています。つまり、「あなたは○○という差別用語を使った」というクレームに対し、「面倒臭いからとにかく謝ろう」と、その主張の裏を取らず安易にペコペコ謝罪してしまうと、“差別主義のはびこっている組織”という弱みを握られて、人権運動に“何らかの貢献をする”(つまり、それらの団体に有形無形の便宜供与したり、それらの団体のイデオロギー教育の定期的な勉強会を開く等)よう求められることがあります。もちろん、そのクレームがまっとうなもので、運動も健全であればよいのですが、そんなケースばかりとは限りません。
もっとも、日常生活では、人権団体からクレームを受けることはあまりないかもしれません。しかし、“○○という言葉は差別用語だ”という噂の影には、しばしば何らかの政治思想の布教が見え隠れしているものです。本当の問題発言なのか、それとも特定思想の布教手段なのかを、はっきり識別するためにも、「面倒臭い」などと言わず知恵を付けておかなくてはなりません。
それは卑猥語の時の消し方です。
本論からは外れますが、「“差別用語”はピー音をかぶせて消す」と誤解している人が時々います。これは間違いで、実際には無音にされてしまいます。
しかし、音が消されていると余計に気になってしまうものですが、前後の文脈から大体わかってしまうし、なぜいちいちそんな極端なことするのだろうと思う事もしばしば。本当に差別を助長する表現である場合を除いて、できれば止めて欲しいものです。