一部の学校では、「障害物競走」が消えているようだ。「山あり谷あり競争」など、別の名前を付けているという。障害者に失礼だからという考えかららしいが、ここまで来ると行き過ぎのような気がする。
「障害」の意味を、「広辞苑」(第五版)は以下のように説明する。
しょう‐がい【障害・障碍】シヤウ
(1) さわり。さまたげ。じゃま。「―を乗りこえる」
(2) 身体器官に何らかのさわりがあって機能を果さないこと。「言語―」
(3) 障害競走・障害物競走の略。
このように、元々は「妨げとなるもの」の意味があり、そこから「身体器官への妨げ」の意味が派生したのである。
さてそもそも、「障害」という言葉は、かつては「障礙」とか「障碍」と書いていた。しかし戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったのである。
“「害」という漢字は障害者が他の人に何か害を与えるみたいで不穏当だ”と主張する人が一部にいるが、それは戦後の国語審議会や「障害」の宛字を発明した人に文句を言って欲しい。
電柱の「碍子(がいし)」(陶製の電気絶縁物)という語から見てわかるように、元々の字である「礙」も「碍」も「妨げる」という意味である。「害」と違って、誰かを傷つける、害するという意味はない。
私自身は、「障害」を「障碍」と元の表記に戻すことそのものに異論はない。しかしそれは戦後の漢字制限の引き起こした問題だ。「障碍」を元に戻すのと同時に、漢字制限故に生まれた変梃(へんてこ)な宛字は全部一旦元に戻すべきでなかろうか。特に問題と思われる例を二つ挙げると、「乱用(濫用)」と、意思の疎通の「疎通(疏通)」がある。「乱用」では、「濫用」の持つ、度を過ぎてあふれるという意味にならない。「疎通」は全く逆の意味の字になった例だ。もともとの「疏」の字は、よどみなく流れるという意味だが、この字が漢字制限に引っかかるため、「疎む」「疎外」の「疎」になってしまった。
それでも、“「障害物」とは人にとって障害となる物なのだから、「障害者」とは他の人にとって障害となる者という意味に取れる”と主張する人も中にはいる。例えば、岩渕 真知子/進 氏による、私たちの子どもを取り巻く表現と用語:「法律用語」と「役所用語」の誤訳と不適切表現についてという文章は、その理論の典型的な例である。
一見すると、その主張は正しいように思える。しかし、いつから日本語の「障害者」は「障害となる者」という意味にすり替わったのだろう。「障害者」を「障害物」に似た言葉だから「障害となる者」という意味だというのは、飽くまでも彼らの勝手な解釈であり、妄想であることに、気を付けていただきたい。そもそも、前提からして間違っているのだ。
障害物=(人や物の通行に)障害(を与える)物
障害者=(自己に)障害(を持つ、与えられている)者
つまり「障害者」の「障害」とは「障害物」とは違い、受け身である。障害者自身が他人に障害を与えているという意味では決してないのは、日本語として常識である。漢字熟語にどんなテニヲハが付くのかは、それぞれの言葉によって決まっており、似たような言葉と同じテニヲハが付くものと勝手に自己流解釈すると、とんだ恥をかくことがある。
例を挙げるなら、「役不足」という言葉の意味を誤解している人が多いという。「PTA役員なんて自分には役不足です」と、自分の力不足を認める謙遜表現として間違って使っている人が多い。ところが本当は全く逆の意味なのだ。たとえば、「あなたには役不足かもしれなくて(=能力のあるあなたには釣り合わぬ、つまらない仕事かもしれなくて)申し訳ないけど、これこれの役目を引き受けてくれないかしら」と使うのが正しい。つまり、「役不足」とは、自分の能力がその「役」には「不足」している、という意味ではない。自分の能力がその「役」では不足している、という、正反対の意味である。
もう一つの例として、「少女趣味」という言葉も最近は「ロリコン」の意味に誤解されることが多いが、実際には「少女が趣味」ではなく「少女の趣味」、つまり少女的な甘美でセンチメンタルな、いわゆる“リボンとフリルの世界”に憧れる、そんな趣(おもむき)のことを指すのである。
「役不足」という言葉の意味を誤解していることに気付いた人は、自分の知識の無さを恥じて「これからは正しい意味で使おう」と思うものだ。しかし、「障害者」という言葉の意味を誤解することに関しては、“そんな言葉を使うべきではない、誤解しやすい言葉だから悪い”とでも言うのだろうか。ふざけた話だ。それは“責任転嫁”という。しかも、実際にそんな誤解をしている人など、先に挙げた極端な人以外には、ほとんどいないというのに。