ある特定の単語を避ければ良いという問題ではない。インターネット掲示板で「死ね」と書かずに「氏ね」と書けば脅迫に当たらないという考えが間違っているのと同じで、「片輪」や「気違い」や「エタ」という語さえ使わなければ「身体障害者」「精神障害者」「被差別部落民」に対する中傷発言が許されるという考えも間違っている。
残念ながら日本では「差別用語」という言葉が広く使われてしまっているために、まるで単語に罪があるかのように思われてしまっているが、本当は、単語でなく文脈に問題があるのだ。「差別表現」はあるが、「差別用語」は(侮蔑専門語の例外を除き)ない。
ある外国人集団による犯罪が多発しているからといって、「○○人は犯罪者予備軍だから、みんな日本から追放しろ」と言うのは間違っている。それでは、ある言葉が中傷や差別に誤用される可能性があるというだけで、「差別用語」というレッテルを貼って日本語から存在を抹殺するというのは、どうなのだろう。
それに、差別表現はあくまでも枝葉の問題であり、根っこである差別意識を根絶しない限り、いくら刈り取っても雑草のようにしぶとく伸びてくる。雑草に見える枝葉だけ刈って満足するのは本当の差別撲滅運動ではなく、人々に自分の善行を見せつけるだけのパフォーマンスに過ぎないと言えよう。それに、行き過ぎた行動は、雑草だけでなく穀物まで刈ってしまっている事が往々にしてある。
あるテレビ番組や出版物で、特定の言葉の使用が自粛されていたり、別の言葉に書き換えられたりしていることがある。これは「差別用語」だから使わない事にしたのだろうか。必ずしもそうとは言えない。
実は、一般に「差別用語」と言われている言葉の大半は、本当の意味で差別用語、つまり差別的罵倒専門語ではない。「万一傷つく人がいるといけない」と余計なお節介をする余りに、差別的な用語でも何でもないのに、放送・出版の世界で使用を自粛しているだけのことが多い。
気を付けないと、我々も特定の言葉を“差別用語”化して使えなくしている勢力の片棒を担いでしまいかねない。例えば我々は、「あるテレビ番組で『乞食』という言葉が消されていたが、それは差別用語だったからだ」とか「今は『百姓』という言葉は差別用語になっていて使えない」などという誤解を広めてしまうことがあるだろうか。これは、大手のマスメディアが垂れ流している誤解をそのまま広める事になりかねない。
これはあくまでもマスコミ側の独自に定めた基準に過ぎず、我々の日常生活での基準とは異なるし、それに合わせる必要もない。我々は、特定の言葉を文脈を無視して機械的に退ける愚を犯すことなく、マスコミ以上に正しく実際的な基準を追い求めていくべきである。
良くも悪くも使われてきたある単語に、ある日「差別用語」の罪を着せられてからは、状況は一変する。その語を使うのは、少数の「差別確信犯」と「それが濡れ衣だと知って使っている人」を除くと、「それが“差別用語”だと知らない人」だけになる。しかもこの層は、「知らなかったんですか、それって“差別用語”で、使っちゃいけないんですよ」と言われると「知りませんでした。今後(良い文脈でも)一切使いません」となる。
このようにして結局、差別的でなく使ってきた層がどんどん減ってしまい、あとは少数の「差別確信犯」と、それより少ない「それが濡れ衣だと知って使っている人」だけが残る。結局、「差別者以外にはほとんど使われない語」という既成事実が作り上げられてしまうのだ。
「○○は、かつては差別用語ではなかったが、今は差別用語であると認識されている」と説明する人は多いが、こんな主張を聞くたびに私は憤りを感じる。その語を“差別用語”化してしまったのは誰なんだ、責任者出て来い、と。
「かつては、今では差別用語と認識されている語が広く使われてきた」という説明もよく目にする。まるで昔の人間がみんな差別好きだったかのようにみなす差別発言を、私は許さない。
(しかし、「かつては、今では差別発言と認識されている表現に日常的に接したものだった」という表現なら正しかろう。例えば学校で「おい、そこのメガネ!」と生徒を呼ぶのは、クラスによってはごく日常の風景だったし、左利きとか色盲等を「身体的欠陥は人間的欠陥だ」などと、人を傷つける発言をする人だって、結構いた。しかし、人を傷つける表現の問題と、用語の問題を混同すべきではない。また、言うまでもないことだが、昔の人がこんな人ばかりではなく、時には「そんなこと言ったら傷つくでしょう?」とたしなめる姿もまた日常的であった。)
なるほど、文脈からしても明らかな差別発言が問題であるのなら、一理あるだろう。しかしそうではないようだ。差別的でなく普通にそれらの語を使ってきた父祖たちを、「差別用語を使ってきた」などと差別的な目で冒涜するのはよして欲しい。
すべてがそうではないが、場合によっては、ある政治団体や市民運動団体の特定の政治的イデオロギーと相容れないという理由から、特定の言葉は“差別用語”だと主張してイメージダウンさせ、使いにくくさせている場合がある。
例えば、ウーマンリブ運動が一番有名かもしれない。また、「子供」を「子ども」と書くことは、子供は大人に従うことよりも自分たちの人権の方が大切だとの政治的信条から出ていることがある。
また、自分たちのグループの主張を宣伝する事とか、“人権教育が行き届いていない”“福祉に対する意識が遅れている”ことを強調して、そのグループが受け取る福祉予算を増やしてもらうことが目的であることもある(もちろん、それが本当に必要な予算なら、予算そのものは私も賛成だ。しかしアンフェアな方法で予算をもらおうと企むという手段だけはいただけないし、予算の無駄遣いは問題だろう)。
もしあなたがその団体の政治的イデオロギーを受け入れないのであれば、その“差別用語”だという主張も一度疑ってみる必要があるだろう。少なくとも、どんな政治的意図が背後にあるのか、一度調べてみるべきではなかろうか。
弱者にしか痛みはわからない、弱者の気持ちになって考えろと言いますが、その「弱者の気持ちになって考える」とは、グループの信条や方針を受け入れるという意味に他ならないことが往々にしてある。この詭弁に惑わされてはならない。
皆が持つ弱者へのいたわりの心に便乗すれば、弱者をダシにすれば、どんな屁理屈でも通用すると考えるのは大間違いである。
「うっかり口を滑らせたら人権団体にひどい糾弾を受けそうで怖い」という恐怖が一般に蔓延している原因はまさに“差別用語”の名の下の大袈裟な言葉狩りであり、それは社会的弱者に真の思いやりを示すどころか「何かされたら怖いから」という消極的な理由で見かけばかりの“思いやり”を示すだけに終わる。そして、「弱者はこういう常識知らずのわがままな輩ばかりだ」という誤解ばかりが一人歩きして、かえって差別感情を深めることになる。結局、社会的弱者とそうでない者との溝を埋めるどころか、さらに一層溝を深くすることになりかねない。当事者にとっても大きな迷惑であり、むしろ「差別根絶の敵」と言えるだろう。