“メイドさんブーム”考(2/3)

2004/12/27

服装の上品さ、清純さも魅力の一つと言えるかもしれない。元々の正統派メイド服は、婦人の慎みというものを正に服装で表現したかのようなロングスカートである。日本でいうなら着物の魅力に近い部分があるかもしれない。フェミニストはどちらも「女性を束縛する服装」みたいにレッテル貼りするかもしれないが、「盆栽」や「日本舞踊」みたいな、自由奔放の美とは対極を成す、伝統と様式という決まった型の中で花咲く美というものが有ってもよいではないか。そんな考えはダサいと言われ、忘れ去られようとしている世の中だからこそ、貴重に思われてくるものである。

ここでついでながら、“メイド喫茶”によっては、クラシックなメイドさんスタイルではなくて、まるで80年代カワイコちゃんアイドルのドレスにフリフリエプロンを付けたみたいな感じの服を“メイド服”と称していることがあるが、厳密に言うなら、こんなのメイド服なんて言わない(俗に「似非メイド服」とも言われる)。まあ別物と割り切ればいいだろうし、“ミニスカートなどスカートと呼んじゃいけない、あんなの只の布切れだ。南の島の原住民の腰ミノの方がよっぽどマシだ”とまで言う気はないが、メイド服というものはあくまでもお屋敷としての品位ある作業服であり、お屋敷中に色気を振りまくコスチュームじゃあない。もしこんな服装のメイドさんがお屋敷にいたら、ちょうど修道院のシスターの服装がふりふりミニスカートだったり、高校の制服が普通のセーラー服ではなくてセーラームーンだったりするのと同じくらい、とても場違いな光景である。

メイドさんがけなげに働く姿を美しいと感じる人も多いだろう。昨今の行き過ぎたフェミニズムの反動を感じるのは私だけだろうか。フェミニストは往々にして専業主婦を迫害し、キャリアウーマンとしての労働を尊く、家事労働をそれに比べて卑しいものとみなす傾向に走りがちである。しかしその考えは正しくない。家事労働は外での仕事と同じくらい、あるいはそれ以上に尊く美しいものである。フェミニズムは伝統的な“女性らしさ”の美をあざ笑い、女性の精神を男性化させようと躍起になっているが、その試みが完全に成功することはないだろう。幼い女の子は未だにお絵描きというと西洋風のドレスのお姫様を描きそれに憧れ、人はメイドさんブームから「家事労働をする婦人の美しさ」というものを再発見しつつある。

もてなしの精神の美しさだが、簡単に言うなら、看護婦への憧れと共通する部分があるだろう。興味深いことに、「お世話したい」と感じる人もいれば、「お世話される」ことに憧れる人もいる。将来なりたい職業に「看護婦さん」や「ウェイトレスさん」や「保育園の保母さん」や「お母さん」を挙げるような女の子は典型的な前者のタイプである。

さて、最後の三つは、正統派メイドさん原理主義者?の私個人の考えとしては「邪道」である。確かに目上の人に従うことは美徳であり、職務に忠実なのは立派なことである。そういう立派な性格に憧れるというのは良い。しかし、メイドさんは主人のオモチャじゃない。そもそも、昔のお屋敷では旦那様が直接下っ端のメイドに仕事を指図するのではなくて、女主人が指図するのが普通だったようだ。押しかけ女房よろしく突然男の子のもとに押しかけて「ご主人様ぁ」と甘ったれ声で呼びかけながら身の回りのお世話をしたり、ご主人様に言い寄って恋仲になったりとか、“メイドさん”ものの漫画の中にはそんな大層都合の良い展開の作品も少なからずあるが、これはあくまでも創作、萌えアニメおたく向けのアレンジである。メイドさんの本来の姿はそんなものじゃない(森薫先生のウェブサイト(PC用サイト)の「こんなメイドさんイヤだシリーズ」を参照)。

#)次のページ

*)戻る

0)前のページ